未唯への手紙
未唯への手紙
ナポレオン三世 国民国家の誕生
『世界史の10人』より ナポレオン三世 甥っ子は伯父さんを超えられたのか?
国民国家の誕生
ボナパルト(以下、一世のことはこう呼ぶことにします)のやったことをひと言であらわすなら、「上からの革命」でしょう。フランス革命でアンシャン・レジーム(旧体制)が壊れて民衆のエネルギーが解き放たれ、内戦で二十万から三十万の人が死んでいます。この殺し合いのエネルギーを上手にすくい取って昇華させたのが、ボナパルトでした。
ルイ十六世もマリー・アントワネットもギロチンにかけられて、恐怖にかられたヨーロッパ列強の君主たちは、明日はわが身と恐れ、何度も対仏大同盟を結んではフランスを包囲します。そこにあらわれたボナパルトは、「フランスを守ろう」と煽って国内で争っていたエネルギーを外に向けようとする。周囲を敵に囲まれたフランスは団結して、「フランス国民」が誕生した。国民国家(ネーション・ステート)、ナショナリズムがここに産声をあげたのです。
ボナパルトは、フランス革命というビッグバンのエネルギーを外に向けることによって、フランスという国民国家をつくり上げました。そのエネルギーには凄まじいものがあって、あっという間にヨーロッパ大陸のほとんどを制して、フランスは大帝国となります。さらにボナパルトが消え去ったあとも、各国の民衆が自由を求めて反乱を起こすようになった。
ボナパルトのあとに一体何が残ったのかといえば、ひとつは国民国家、いまひとつは自由・平等・友愛の精神です。ボナパルトは類い稀な軍事的能力を駆使して、全ヨーロッパを支配し、ヨーロッパ中に、自由・平等・友愛というウイルスを撒き散らした結果、一挙に近代国家の大本となったネーション・ステートができ上がった。これが「上からの革命」です(ちなみに自由・平等・友愛のウイルスは南米にも飛び火しました)。十八世紀後半、「上からの近代化」を図ったエカチェリーナ二世など何人かの中欧の君主を「啓蒙専制君主」と呼ぶ向きもありますが、言葉の真の意味ではボナパルトほどの啓蒙専制君主は空前絶後でしょう。
ボナパルトはまた、ナポレオン法典をつくりました。この画期的な民法典によって私有権の概念が明確になり、資本主義や近代市民国家を形成するインフラができ上がりました。
彼をヨーロッパの歴史をつくった三人の偉大な皇帝のひとりに数えてもいいでしょう。その三人とは、カエサル、フェデリーコニ世、そしてナポレオンーボナパルトです。
泡沫候補が大統領に
一八四六年に父のルイがフィレンツェで亡くなります。このとき三世はアム監獄を脱走して父のもとに駆けつけようとするのですが、すでに父親の耳には、遊蕩のかぎりを尽くし、一揆を二度も起こして入獄中に私生児を産ませるなど、数々の息子のよからぬ行状が届いていたのでしょう。面会を拒絶したという記録が残っています。もっとも、オーストリア大使館に当時オーストリア領だったフィレンツエヘの渡航許可を拒否されたからだという説もあります。父の死によって三世にはまた遺産が転がり込みます。そして再びロンドンヘ。
ここで運命の女性、ミス・ハワードと出会います。元はコールガールで、富豪たちに貢がせてお金持ちになった彼女は、その後三世が政治活動をするときのスポンサーとなる重要な存在になります。
二年後の一八四八年、二月革命が起こり、ルイ・フィリップが王位を追われます。しばらくは混乱が続きますが、このときの三世は慎重に行動し、やがてロンドンから補欠選挙に立候補して、憲法制定議会の議員になる。一揆を起こすまで、フランスではボナパルトの名声こそ高かったものの、甥の三世の存在はほとんど知られていませんでした。それが裁判にかけられて演説をぶったりするうちに新聞にも報じられるようになり、少しずつ知名度も上がっていった。
新しく憲法がつくられ、第二共和政が成立すると、三世は大統領選に立候補します。そして、またたく間に大統領になってしまう。当初の泡沫候補が、ナポレオンの名声を武器に大統領にまでのぼりつめたわけです。もっとも、大統領の権限はたいしたことがなく、任期は四年で再選は禁じられていましたし、国会議員にもほとんど三世の味方はいない。
ここで彼は熟考します。
三世の義理の弟にド・モルニーという男がいました。母オルタンスがルイと別れて、再婚した相手との間に生まれた子どもです。そのド・モルニーと謀って三度目のターデタを起こそうとします。ただ、これまでの一揆と異なるのは、すでに彼が大統領の地位にあること。それでド・モルニーを内務大臣に据え、将軍や警視総監らとも綿密な計画を練って決行しています。
一八五一年十二月二日の早朝、大統領と内務大臣連名の布告が出され、議会解散と普通選挙の実施が命令されます。同時に警察が議員たちの寝込みを襲って逮捕、さらに警察が議員や蜂起した民衆に発砲して、数百名の死者を出す騒ぎにまで発展しています。まさに本格的なターデタが起きたのです。
カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』でこの事件を、「世界史上の有名人物は二度現れる。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として」と酷評しています。ちなみに「一度目の悲劇」というのは、ボナパルトがフランス革命(共和政)をクーデタで潰してしまったことを指しています。
マルクスの評価とはうらはらに、三世のクーデタはその後に行れた信任投票で圧倒的な支持を獲得し、翌五二年には新憲法を施行して、大統領任期を十年に引き上げ、権限を強化するほどまでになります。ドイツ語なまりでぼそぼそと話す三世は、討論や演説を苦手としていて、とても政治家向きではなかったようですが、じっと機をうかがって、チャンスとみれば一気呵成に勝負に出るしたたかさが、このころから備わってきたように見受けられます。
国民国家の誕生
ボナパルト(以下、一世のことはこう呼ぶことにします)のやったことをひと言であらわすなら、「上からの革命」でしょう。フランス革命でアンシャン・レジーム(旧体制)が壊れて民衆のエネルギーが解き放たれ、内戦で二十万から三十万の人が死んでいます。この殺し合いのエネルギーを上手にすくい取って昇華させたのが、ボナパルトでした。
ルイ十六世もマリー・アントワネットもギロチンにかけられて、恐怖にかられたヨーロッパ列強の君主たちは、明日はわが身と恐れ、何度も対仏大同盟を結んではフランスを包囲します。そこにあらわれたボナパルトは、「フランスを守ろう」と煽って国内で争っていたエネルギーを外に向けようとする。周囲を敵に囲まれたフランスは団結して、「フランス国民」が誕生した。国民国家(ネーション・ステート)、ナショナリズムがここに産声をあげたのです。
ボナパルトは、フランス革命というビッグバンのエネルギーを外に向けることによって、フランスという国民国家をつくり上げました。そのエネルギーには凄まじいものがあって、あっという間にヨーロッパ大陸のほとんどを制して、フランスは大帝国となります。さらにボナパルトが消え去ったあとも、各国の民衆が自由を求めて反乱を起こすようになった。
ボナパルトのあとに一体何が残ったのかといえば、ひとつは国民国家、いまひとつは自由・平等・友愛の精神です。ボナパルトは類い稀な軍事的能力を駆使して、全ヨーロッパを支配し、ヨーロッパ中に、自由・平等・友愛というウイルスを撒き散らした結果、一挙に近代国家の大本となったネーション・ステートができ上がった。これが「上からの革命」です(ちなみに自由・平等・友愛のウイルスは南米にも飛び火しました)。十八世紀後半、「上からの近代化」を図ったエカチェリーナ二世など何人かの中欧の君主を「啓蒙専制君主」と呼ぶ向きもありますが、言葉の真の意味ではボナパルトほどの啓蒙専制君主は空前絶後でしょう。
ボナパルトはまた、ナポレオン法典をつくりました。この画期的な民法典によって私有権の概念が明確になり、資本主義や近代市民国家を形成するインフラができ上がりました。
彼をヨーロッパの歴史をつくった三人の偉大な皇帝のひとりに数えてもいいでしょう。その三人とは、カエサル、フェデリーコニ世、そしてナポレオンーボナパルトです。
泡沫候補が大統領に
一八四六年に父のルイがフィレンツェで亡くなります。このとき三世はアム監獄を脱走して父のもとに駆けつけようとするのですが、すでに父親の耳には、遊蕩のかぎりを尽くし、一揆を二度も起こして入獄中に私生児を産ませるなど、数々の息子のよからぬ行状が届いていたのでしょう。面会を拒絶したという記録が残っています。もっとも、オーストリア大使館に当時オーストリア領だったフィレンツエヘの渡航許可を拒否されたからだという説もあります。父の死によって三世にはまた遺産が転がり込みます。そして再びロンドンヘ。
ここで運命の女性、ミス・ハワードと出会います。元はコールガールで、富豪たちに貢がせてお金持ちになった彼女は、その後三世が政治活動をするときのスポンサーとなる重要な存在になります。
二年後の一八四八年、二月革命が起こり、ルイ・フィリップが王位を追われます。しばらくは混乱が続きますが、このときの三世は慎重に行動し、やがてロンドンから補欠選挙に立候補して、憲法制定議会の議員になる。一揆を起こすまで、フランスではボナパルトの名声こそ高かったものの、甥の三世の存在はほとんど知られていませんでした。それが裁判にかけられて演説をぶったりするうちに新聞にも報じられるようになり、少しずつ知名度も上がっていった。
新しく憲法がつくられ、第二共和政が成立すると、三世は大統領選に立候補します。そして、またたく間に大統領になってしまう。当初の泡沫候補が、ナポレオンの名声を武器に大統領にまでのぼりつめたわけです。もっとも、大統領の権限はたいしたことがなく、任期は四年で再選は禁じられていましたし、国会議員にもほとんど三世の味方はいない。
ここで彼は熟考します。
三世の義理の弟にド・モルニーという男がいました。母オルタンスがルイと別れて、再婚した相手との間に生まれた子どもです。そのド・モルニーと謀って三度目のターデタを起こそうとします。ただ、これまでの一揆と異なるのは、すでに彼が大統領の地位にあること。それでド・モルニーを内務大臣に据え、将軍や警視総監らとも綿密な計画を練って決行しています。
一八五一年十二月二日の早朝、大統領と内務大臣連名の布告が出され、議会解散と普通選挙の実施が命令されます。同時に警察が議員たちの寝込みを襲って逮捕、さらに警察が議員や蜂起した民衆に発砲して、数百名の死者を出す騒ぎにまで発展しています。まさに本格的なターデタが起きたのです。
カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』でこの事件を、「世界史上の有名人物は二度現れる。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として」と酷評しています。ちなみに「一度目の悲劇」というのは、ボナパルトがフランス革命(共和政)をクーデタで潰してしまったことを指しています。
マルクスの評価とはうらはらに、三世のクーデタはその後に行れた信任投票で圧倒的な支持を獲得し、翌五二年には新憲法を施行して、大統領任期を十年に引き上げ、権限を強化するほどまでになります。ドイツ語なまりでぼそぼそと話す三世は、討論や演説を苦手としていて、とても政治家向きではなかったようですが、じっと機をうかがって、チャンスとみれば一気呵成に勝負に出るしたたかさが、このころから備わってきたように見受けられます。
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『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』カール・マルクス
『反知性主義に陥らないための必読書70冊』より
民主的に権力を握り、皇帝独裁へと至るナポレオン3世の姿は現代日本にとっても示唆的
同世代(20、30代)のマルクスヘの理解には驚かされることが多い。無論、深く理解する者もいるが、「暴力革命・テロの元凶だ」と思いこんでいたり、一切読んだこともないのに「弱者に優しい私」を標榜する者が自らを「マルクス主義者」と自称してみたり。
だが、実際に読んでみれば、それが事実に基づく論理的な分析や先行研究・俗説への鋭い批判が随所に挟まれた、真っ当な魅力をもった読み物であることに気づく。であるからこそ、無数の人を魅了し、時にはその理論が実践される中で多くの悲劇を煽り、支えてもきたのも確かなのだが。
本書もまた、マルクスが歴史的事実を緻密に描きながら、その普遍性に迫る。民主主義下にもかかわらず/であるからこそ独裁制が成立する背景。自由を求める人々が逆説的にも自ら支配の中に隷従していく現象のからくり。例えば、スターリニズムやナチズム、今日も世界各地に存在する恐怖政治が、議会制民主主義等を通して民衆の支持のもと成立するメカニズムがそこに透けて見える。
ルイ・ボナパルトは、ナポレオンの甥だ。彼は、フランス革命に続く混乱の中、軍事的才覚を背景に政治的実権を握り独裁権を得たナポレオンとぱ違い、民主的に大統領に選ばれたにもかかわらず、クーデターを実行して共和制をつぶし自らを皇帝とする独裁制を打ち立てた。
それは希望とともに確立された共和制下の男子普通選挙の中で生まれた。階級・職業毎に分かれた支持層を持つ党派同士は揉め事を続ける。党派はその支持者の期待を裏切り、安定的な支持を得られない。そんな中、膨大な数の貧しい分割地農民を中心に、既存の党派ではなく、ルイ・ボナパルトを支持する層が生まれる。空虚な希望を喧伝し、その実現を期待させながら大衆的支持を得るルイ・ボナパルトは、短期間のうちに多くの大衆を魅了し圧倒的な支持を得る。議会に存在する自らへの抵抗勢力を徹底的に弾圧するも、そうやって議会制民主主義を崩そうとするほど既成党派に失望した大衆の支持は増す一方。遂に独裁政治が国民による圧倒的な支持のもとで確立する。
そこに描かれた160年ほど前の風景に、現代を生きる私たちは既視感を覚える。
俯瞰的に現状を理解することなく、「明るい未来」に引きつけられ、「悪そうな奴」を吊し上げるような人々の視野狭窄。それを「粛々と」促すのは体制側も反体制側も変わりない。議会制民主主義を軽んじ、的はずれな「議会の外での政治」を煽ろうとする似非インテリが出現するも、その実践の帰結はガス抜きか、さらなる政治不信の助長に終わる。漠然とした不安を抱えた人々がさらに行き場を失う中、政治は国民を動員しながら急速に保守化していく。
はじめは取つつきにくいかもしれない。だが、レヴィ=ストロースやエドワード・サイードをも強く魅了してきたというその文体は、時代を越えて陳腐化することなく多くの示唆を与えてくれるはずだ。
民主的に権力を握り、皇帝独裁へと至るナポレオン3世の姿は現代日本にとっても示唆的
同世代(20、30代)のマルクスヘの理解には驚かされることが多い。無論、深く理解する者もいるが、「暴力革命・テロの元凶だ」と思いこんでいたり、一切読んだこともないのに「弱者に優しい私」を標榜する者が自らを「マルクス主義者」と自称してみたり。
だが、実際に読んでみれば、それが事実に基づく論理的な分析や先行研究・俗説への鋭い批判が随所に挟まれた、真っ当な魅力をもった読み物であることに気づく。であるからこそ、無数の人を魅了し、時にはその理論が実践される中で多くの悲劇を煽り、支えてもきたのも確かなのだが。
本書もまた、マルクスが歴史的事実を緻密に描きながら、その普遍性に迫る。民主主義下にもかかわらず/であるからこそ独裁制が成立する背景。自由を求める人々が逆説的にも自ら支配の中に隷従していく現象のからくり。例えば、スターリニズムやナチズム、今日も世界各地に存在する恐怖政治が、議会制民主主義等を通して民衆の支持のもと成立するメカニズムがそこに透けて見える。
ルイ・ボナパルトは、ナポレオンの甥だ。彼は、フランス革命に続く混乱の中、軍事的才覚を背景に政治的実権を握り独裁権を得たナポレオンとぱ違い、民主的に大統領に選ばれたにもかかわらず、クーデターを実行して共和制をつぶし自らを皇帝とする独裁制を打ち立てた。
それは希望とともに確立された共和制下の男子普通選挙の中で生まれた。階級・職業毎に分かれた支持層を持つ党派同士は揉め事を続ける。党派はその支持者の期待を裏切り、安定的な支持を得られない。そんな中、膨大な数の貧しい分割地農民を中心に、既存の党派ではなく、ルイ・ボナパルトを支持する層が生まれる。空虚な希望を喧伝し、その実現を期待させながら大衆的支持を得るルイ・ボナパルトは、短期間のうちに多くの大衆を魅了し圧倒的な支持を得る。議会に存在する自らへの抵抗勢力を徹底的に弾圧するも、そうやって議会制民主主義を崩そうとするほど既成党派に失望した大衆の支持は増す一方。遂に独裁政治が国民による圧倒的な支持のもとで確立する。
そこに描かれた160年ほど前の風景に、現代を生きる私たちは既視感を覚える。
俯瞰的に現状を理解することなく、「明るい未来」に引きつけられ、「悪そうな奴」を吊し上げるような人々の視野狭窄。それを「粛々と」促すのは体制側も反体制側も変わりない。議会制民主主義を軽んじ、的はずれな「議会の外での政治」を煽ろうとする似非インテリが出現するも、その実践の帰結はガス抜きか、さらなる政治不信の助長に終わる。漠然とした不安を抱えた人々がさらに行き場を失う中、政治は国民を動員しながら急速に保守化していく。
はじめは取つつきにくいかもしれない。だが、レヴィ=ストロースやエドワード・サイードをも強く魅了してきたというその文体は、時代を越えて陳腐化することなく多くの示唆を与えてくれるはずだ。
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『日亜対訳 クルアーン』中田考
『反知性主義に陥らないための必読書70冊』より
翻訳が異文化を架橋するものであるならば、「中田訳」は翻訳を拒否してみせた翻訳である
「反知性主義」が日本の出版業界のちょっとした流行りとなってこんな依頼が舞い込んだのだが、世に出る「反知性主義関連本」の著者はというと、どう考えてもまさに反知性主義者そのもの、といった面々が並ぶ。反知性主義に陥りたくなければまず、声高に他人を「反知性主義」と罵っているような人々の名前で出た本は読まない、というところから始めることが鉄則だろう。
今手にとっておられるこの雑誌を出している出版社だって、私から見れば数多くの反知性主義本を出し続けている。それで会社が成り立っていて、文芸雑誌だって出せているのである。その後ろめたさの感覚を少しでも持ってこの誌面を読んでいるか否かもまた、「知性」を計る一つの試金石ではないかな。
かくいう私も、文藝春秋から1月に『イスラーム国の衝撃』を出したが、ほとんど悪魔との取引に乗るようなつもりで執筆依頼を引き受けた。社が押す「売れ筋」ではないので、まともに広告すら打ってもらえない。ところがそれなのに一時期むやみに売れたのは、偶然に発売日当日、研究対象そのものの「イスラーム国」が人質殺害脅迫動画を公開して連日のニュースとなり、結果として巨大な広告をしてくれた形になったからだ。
その後も『文藝春秋』本誌の「イスラーム国」特集でも、出てくるのは前時代の世界大戦の最中に育った世代で、「全くわからないね」「そうだね」といった雰囲気の茶飲み話で長大な紙幅を費やしている。こんな雑誌作りをするのも、唯々諾々と手にとって読む読者も、反知性主義そのものだろう。知ろうとする気がないのだから。
そんな中で、中田考の翻訳・監修による『日亜対訳 クルアーン』が出た。これを読んでいる人は知性たっぷり、なんてことはもちろんない。「中田訳」のコーランに対する出版・メディア上での日本の「知識人」の反応を見て、絶望的になった。「初めての信仰者による翻訳」などと声高に論じ、これまでの翻訳があたかも間違っていたかのような、杜撰な論評が繰り返し新聞・雑誌上に現れた。もちろん、信仰者の翻訳はすでにある。『日亜対訳 注解 聖クルアーン』として、信仰者も信仰者、日本の信者団体である日本ムスリム協会から出版されて版を重ね、改訂を重ねてきた。こんなことも知らずに「最初の信仰者による訳」だからすごいなどと得意げに論じる論者は論外だが、編集者も校正もなぜ気づかないのか。
日本ムスリム協会訳は、ホームページでも全文閲覧できる。これを検索したこともない人は、イスラーム教を公の場で論じる資格がないし、そもそもその必要がない。だって知らないんでしょ? 知らないことについて知ったつもりになり、公の場で語ってしまいたいような気分になり、それを編集者も校正もフリーパスで通してしまう、これこそ反知性主義だ。
そもそも「中田訳」の巻頭の訳者解説の中にも、これまでの翻訳として日本ムスリム協会訳が挙げられている。そんなところも読めず、読まず、「中田訳」に太鼓判を押す歴々の有識者こそが、反知性主義を自ら知らずして実践していると言わざるを得ない。自覚的な反知性主義者の方がまだマシではないか。
あなた、コーランではなく「クルアーン」と発音したら理解が深まった、とか思っていませんか? あり得ない。コーランは魔術ではない。「クルアーン」と「コーラン」の違いをアラビア語で理解しない人がただ「クルアーン」と発音してもなんら意味はない。そして、アラビア語を理解するようになればなったで、日本語への翻訳として断然「コーラン」と呼び続けることが、正しい姿勢だと私は信じている。
「中田訳」をありがたがって読んだふりをする前にまず、岩波文庫版の井筒俊彦訳ぐらい読みなさい。中公クラシックス版の藤本勝次・伴康哉・池田修訳を読みなさい。井筒訳は、イスラーム教の神の啓示の口吻を東アジアの信心の言葉に移し替えようとした、それ自体が日本の宗教言語を世界宗教との接触によって発展させた作品である。藤本・伴・池田訳はアラビア語学や歴史学の専門家による堅実な現代語訳である。いずれもその目的と価値がある。それを読み取れず、「中田訳」が出たからといってその太鼓持ちをもって任じる方々、出版・メディア業界の需要に応えるという短期的な目的のために膨大な先人の労作を理解もできずにクサし、打ち捨てて見せる方々こそ、現代の反知性主義者である。
「コーランはアラビア語でなければ理解できない」などと軽々しく言ってはならない。そもそもそのことを「理解」できたとあなたはなぜ主張できるのだろうか。あなたはアラビア語を理解できるのか。イスラーム教徒なのか。「アラビア語のコーランは神の言葉である」という言明は信者の立場からの信念として発せられる場合以外は成り立たない。
翻訳が異文化を架橋するものであるならば、「中田訳」は翻訳を拒否してみせた翻訳である。アラビア語を解しない日本語話者には理解しようのない真のコーラン、すなわちアラビア語の「クルアーン」を、恩恵として「意味」だけでも伝えてやろうという立ち位置からの訳業である。それは井筒訳とも藤本・伴・池田訳とも異なる姿勢である。その姿勢を感じ取るためにこそ、「中田訳」は読む価値がある。一方、日本ムスリム協会訳は、そのような拒絶の姿勢を取っていない、少なくとも、極力見せないようにした、既存の信者団体の姿勢が表れた翻訳だろう。先行する信仰者の翻訳かおるからこそ、それへのアンチテーゼの意味を多く含んだ「中田訳」なのである。
「中田訳」のコーランは、神の言葉の日本語への翻訳は不可能だ、ということを多大な労苦を払って日本語で表現している。しかし原理的に伝わるはずがないことを、もし伝わったとしてもそれは「伝わらない」ということの理解でしかないことを、なぜ今また多大な労苦を払ってまで行うのか。もしかすると「中田考」とは愉快犯、トリックスターなのではないか、などと「不敬」なことを考えながら読んで初めて、世情に溢れる反知性主義からひととき逃れることができる。
翻訳が異文化を架橋するものであるならば、「中田訳」は翻訳を拒否してみせた翻訳である
「反知性主義」が日本の出版業界のちょっとした流行りとなってこんな依頼が舞い込んだのだが、世に出る「反知性主義関連本」の著者はというと、どう考えてもまさに反知性主義者そのもの、といった面々が並ぶ。反知性主義に陥りたくなければまず、声高に他人を「反知性主義」と罵っているような人々の名前で出た本は読まない、というところから始めることが鉄則だろう。
今手にとっておられるこの雑誌を出している出版社だって、私から見れば数多くの反知性主義本を出し続けている。それで会社が成り立っていて、文芸雑誌だって出せているのである。その後ろめたさの感覚を少しでも持ってこの誌面を読んでいるか否かもまた、「知性」を計る一つの試金石ではないかな。
かくいう私も、文藝春秋から1月に『イスラーム国の衝撃』を出したが、ほとんど悪魔との取引に乗るようなつもりで執筆依頼を引き受けた。社が押す「売れ筋」ではないので、まともに広告すら打ってもらえない。ところがそれなのに一時期むやみに売れたのは、偶然に発売日当日、研究対象そのものの「イスラーム国」が人質殺害脅迫動画を公開して連日のニュースとなり、結果として巨大な広告をしてくれた形になったからだ。
その後も『文藝春秋』本誌の「イスラーム国」特集でも、出てくるのは前時代の世界大戦の最中に育った世代で、「全くわからないね」「そうだね」といった雰囲気の茶飲み話で長大な紙幅を費やしている。こんな雑誌作りをするのも、唯々諾々と手にとって読む読者も、反知性主義そのものだろう。知ろうとする気がないのだから。
そんな中で、中田考の翻訳・監修による『日亜対訳 クルアーン』が出た。これを読んでいる人は知性たっぷり、なんてことはもちろんない。「中田訳」のコーランに対する出版・メディア上での日本の「知識人」の反応を見て、絶望的になった。「初めての信仰者による翻訳」などと声高に論じ、これまでの翻訳があたかも間違っていたかのような、杜撰な論評が繰り返し新聞・雑誌上に現れた。もちろん、信仰者の翻訳はすでにある。『日亜対訳 注解 聖クルアーン』として、信仰者も信仰者、日本の信者団体である日本ムスリム協会から出版されて版を重ね、改訂を重ねてきた。こんなことも知らずに「最初の信仰者による訳」だからすごいなどと得意げに論じる論者は論外だが、編集者も校正もなぜ気づかないのか。
日本ムスリム協会訳は、ホームページでも全文閲覧できる。これを検索したこともない人は、イスラーム教を公の場で論じる資格がないし、そもそもその必要がない。だって知らないんでしょ? 知らないことについて知ったつもりになり、公の場で語ってしまいたいような気分になり、それを編集者も校正もフリーパスで通してしまう、これこそ反知性主義だ。
そもそも「中田訳」の巻頭の訳者解説の中にも、これまでの翻訳として日本ムスリム協会訳が挙げられている。そんなところも読めず、読まず、「中田訳」に太鼓判を押す歴々の有識者こそが、反知性主義を自ら知らずして実践していると言わざるを得ない。自覚的な反知性主義者の方がまだマシではないか。
あなた、コーランではなく「クルアーン」と発音したら理解が深まった、とか思っていませんか? あり得ない。コーランは魔術ではない。「クルアーン」と「コーラン」の違いをアラビア語で理解しない人がただ「クルアーン」と発音してもなんら意味はない。そして、アラビア語を理解するようになればなったで、日本語への翻訳として断然「コーラン」と呼び続けることが、正しい姿勢だと私は信じている。
「中田訳」をありがたがって読んだふりをする前にまず、岩波文庫版の井筒俊彦訳ぐらい読みなさい。中公クラシックス版の藤本勝次・伴康哉・池田修訳を読みなさい。井筒訳は、イスラーム教の神の啓示の口吻を東アジアの信心の言葉に移し替えようとした、それ自体が日本の宗教言語を世界宗教との接触によって発展させた作品である。藤本・伴・池田訳はアラビア語学や歴史学の専門家による堅実な現代語訳である。いずれもその目的と価値がある。それを読み取れず、「中田訳」が出たからといってその太鼓持ちをもって任じる方々、出版・メディア業界の需要に応えるという短期的な目的のために膨大な先人の労作を理解もできずにクサし、打ち捨てて見せる方々こそ、現代の反知性主義者である。
「コーランはアラビア語でなければ理解できない」などと軽々しく言ってはならない。そもそもそのことを「理解」できたとあなたはなぜ主張できるのだろうか。あなたはアラビア語を理解できるのか。イスラーム教徒なのか。「アラビア語のコーランは神の言葉である」という言明は信者の立場からの信念として発せられる場合以外は成り立たない。
翻訳が異文化を架橋するものであるならば、「中田訳」は翻訳を拒否してみせた翻訳である。アラビア語を解しない日本語話者には理解しようのない真のコーラン、すなわちアラビア語の「クルアーン」を、恩恵として「意味」だけでも伝えてやろうという立ち位置からの訳業である。それは井筒訳とも藤本・伴・池田訳とも異なる姿勢である。その姿勢を感じ取るためにこそ、「中田訳」は読む価値がある。一方、日本ムスリム協会訳は、そのような拒絶の姿勢を取っていない、少なくとも、極力見せないようにした、既存の信者団体の姿勢が表れた翻訳だろう。先行する信仰者の翻訳かおるからこそ、それへのアンチテーゼの意味を多く含んだ「中田訳」なのである。
「中田訳」のコーランは、神の言葉の日本語への翻訳は不可能だ、ということを多大な労苦を払って日本語で表現している。しかし原理的に伝わるはずがないことを、もし伝わったとしてもそれは「伝わらない」ということの理解でしかないことを、なぜ今また多大な労苦を払ってまで行うのか。もしかすると「中田考」とは愉快犯、トリックスターなのではないか、などと「不敬」なことを考えながら読んで初めて、世情に溢れる反知性主義からひととき逃れることができる。
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プラトン アカデメイア創設
『知の教科書 プラトン』より その人物と生涯 プラトンに関する史料
カリキュラムと授業風景
アテネに戻ってから、プラトンは英雄アカデモスに捧げられた土地を購入した。そして前三八七年頃、一つの学園を開いた。それは弁論術教師であるイソクラテス(前四三六~前三三八年)の学園と並んで、ギリシャにおける最初の高等教育のための施設であった。学園は間もなくして名声を博し、数多くの若者たちを惹きつけた。プラトンの学園における学問的な生活の特徴は、学問的探究の基礎の上に築かれた哲学的な共同生活(シュヌーシア)と、数学や天文学、植物学、動物学、論理学と弁論術、政治学と倫理学といった諸学の振興であった。定位すべき最高の収斂点は善の原理であり、それは現実の存在論的構造を説明する原理であると同時に、あらゆる人間の意欲の目標と見なされた。
学生たぢの間では、純粋に理論的考察に関心を寄せるグループと、探究の成果から実践的な利益を引き出そうとするより大きなグループとの間に明らかな違いがあった。その生活と学習の特徴は日々の生活の必要性からの自由であり、理論的探究に関心を寄せる者の間の平等と共同であった。授業の枠組みの中で、プラトンの作品も論じられた可能性も考えられる。
アカデメイアにおける授業についての報告を我々はあまり持ち合わせておらず、その点については部分的にプラトンに批判的な伝承や喜劇の戯画化された描写に頼らざるをえない。しかしそれらについても、おそらくは現実の一部を核として含んでいることを認めることができるであろう。この点ではとりわけ、前四世紀前半の喜劇作家エピクラテスによるアカデメイアの学園の授業風景の描写(断が有名である。
舞台で演じられるのは、プラトンに典型的な分割法(ディアイレシス)[『ソフィスト』『政治家』『ピレボス』など後期対話篇で提唱され、実演される方法。ひとまとめにされている事柄をその差異に応じて切り分け分割することをいう。逆に多くのものに共通する性質を見出して一つのものにまとめあげる方法を綜合(シュナゴーゲー)という。この二つの方法を合わせて対話法(ディアレクティケー)と呼ぶ]である。それを用いて一つの対象が規定されなければならないのであるが、エピクラテスにあっては、カボチャはどの種に属すか、という問いが問題とされる。学生たちの間で論争が起きたため、プラトンが温厚な審判役を引き受け、結局、彼は学生たちに最初からやり直させる。
たとえ喜劇固有の嘲弄によって歪曲されているとしても、プラトンの対話篇(たとえば『ソフィスト』や『政治家』)と彼の甥であるとともに学校運営の後継者であるスペウシッポスについての報告からして、そのシーンが学園の実際の特徴を映し出していることは証明されうる。それに加えて、我々はプラトンが学生に課題を出したことも聞いている。それらの課題はたとえば数学や宇宙論の領域に関するものであり、その解き方についての提案へと導くものであった。いうまでもなく、本当の探究に関心をもつ学生もいれば、どちらかといえば皮相な哲学的関心を追究する学生もいた。
共同体としてのアカデメイア
我々はプラトンの対話篇が彼の学生の間で読まれ、それらの対話篇の中で提起された問いとアポリアが論じられ、指針が求められ、プラトン的意味における解決が求められたという前提から出発することが許されるかもしれない。プラトンのアカデメイアは、授業料が無料である--学園はプラトンの財産によって賄われていた--ということによってその学園の重要な競争相手であるイソクラテスの学園と異なっていた。また哲学的な生活共同体という理念や一緒に祝う学園祭(アポロンの誕生日)や饗宴によっても異なっていた。
それに加え、皆が学園と構成員に対して責任感を抱いていた。ピュタゴラス派の共同体との共通性が認められるが、プラトンにおいては「秘教的」な要素はより少なく、おそらくはまた独断的な仕方で物事が進むこともより少なかったと思われる。たとえプラトンが大きな権威を持っていたとしても、アリストテレスのような弟子がプラトンに対して行使することができたような大いなる自由は--アリストテレスによるプラトンのイデア論に対する批判を考えてもみよ--アカデメイア内部におけるリベラルな雰囲気を物語っている。
プラトンの学習と教授のための共同体--伝え聞くところではそれには二人の女性も含む多くのメンバーが所属していたが--では、プラトンの甥で彼の後継者にもなったスペウシッポスやスペウシッポスの後に学園の運営を引き継いだクセノクラテス、またプラトンの死後、学園を後にするまで二十年にわたってアカデメイアで学び教えたアリストテレスのように重要な哲学者たちが活動していた。多くのメンバーは、後に世界のさまざまな地域において助言者として重要な政治的課題に取り組んだ。プラトンの教授活動の最初の二十年の間に、『メノン』『パイドン』『饗宴』の如き重要な対話篇が書かれた。おそらくはまた『パイドロス』と、とりわけ彼の主著とも呼ぶべき『国家』の如き理想国の構想がこの期間に属する。
カリキュラムと授業風景
アテネに戻ってから、プラトンは英雄アカデモスに捧げられた土地を購入した。そして前三八七年頃、一つの学園を開いた。それは弁論術教師であるイソクラテス(前四三六~前三三八年)の学園と並んで、ギリシャにおける最初の高等教育のための施設であった。学園は間もなくして名声を博し、数多くの若者たちを惹きつけた。プラトンの学園における学問的な生活の特徴は、学問的探究の基礎の上に築かれた哲学的な共同生活(シュヌーシア)と、数学や天文学、植物学、動物学、論理学と弁論術、政治学と倫理学といった諸学の振興であった。定位すべき最高の収斂点は善の原理であり、それは現実の存在論的構造を説明する原理であると同時に、あらゆる人間の意欲の目標と見なされた。
学生たぢの間では、純粋に理論的考察に関心を寄せるグループと、探究の成果から実践的な利益を引き出そうとするより大きなグループとの間に明らかな違いがあった。その生活と学習の特徴は日々の生活の必要性からの自由であり、理論的探究に関心を寄せる者の間の平等と共同であった。授業の枠組みの中で、プラトンの作品も論じられた可能性も考えられる。
アカデメイアにおける授業についての報告を我々はあまり持ち合わせておらず、その点については部分的にプラトンに批判的な伝承や喜劇の戯画化された描写に頼らざるをえない。しかしそれらについても、おそらくは現実の一部を核として含んでいることを認めることができるであろう。この点ではとりわけ、前四世紀前半の喜劇作家エピクラテスによるアカデメイアの学園の授業風景の描写(断が有名である。
舞台で演じられるのは、プラトンに典型的な分割法(ディアイレシス)[『ソフィスト』『政治家』『ピレボス』など後期対話篇で提唱され、実演される方法。ひとまとめにされている事柄をその差異に応じて切り分け分割することをいう。逆に多くのものに共通する性質を見出して一つのものにまとめあげる方法を綜合(シュナゴーゲー)という。この二つの方法を合わせて対話法(ディアレクティケー)と呼ぶ]である。それを用いて一つの対象が規定されなければならないのであるが、エピクラテスにあっては、カボチャはどの種に属すか、という問いが問題とされる。学生たちの間で論争が起きたため、プラトンが温厚な審判役を引き受け、結局、彼は学生たちに最初からやり直させる。
たとえ喜劇固有の嘲弄によって歪曲されているとしても、プラトンの対話篇(たとえば『ソフィスト』や『政治家』)と彼の甥であるとともに学校運営の後継者であるスペウシッポスについての報告からして、そのシーンが学園の実際の特徴を映し出していることは証明されうる。それに加えて、我々はプラトンが学生に課題を出したことも聞いている。それらの課題はたとえば数学や宇宙論の領域に関するものであり、その解き方についての提案へと導くものであった。いうまでもなく、本当の探究に関心をもつ学生もいれば、どちらかといえば皮相な哲学的関心を追究する学生もいた。
共同体としてのアカデメイア
我々はプラトンの対話篇が彼の学生の間で読まれ、それらの対話篇の中で提起された問いとアポリアが論じられ、指針が求められ、プラトン的意味における解決が求められたという前提から出発することが許されるかもしれない。プラトンのアカデメイアは、授業料が無料である--学園はプラトンの財産によって賄われていた--ということによってその学園の重要な競争相手であるイソクラテスの学園と異なっていた。また哲学的な生活共同体という理念や一緒に祝う学園祭(アポロンの誕生日)や饗宴によっても異なっていた。
それに加え、皆が学園と構成員に対して責任感を抱いていた。ピュタゴラス派の共同体との共通性が認められるが、プラトンにおいては「秘教的」な要素はより少なく、おそらくはまた独断的な仕方で物事が進むこともより少なかったと思われる。たとえプラトンが大きな権威を持っていたとしても、アリストテレスのような弟子がプラトンに対して行使することができたような大いなる自由は--アリストテレスによるプラトンのイデア論に対する批判を考えてもみよ--アカデメイア内部におけるリベラルな雰囲気を物語っている。
プラトンの学習と教授のための共同体--伝え聞くところではそれには二人の女性も含む多くのメンバーが所属していたが--では、プラトンの甥で彼の後継者にもなったスペウシッポスやスペウシッポスの後に学園の運営を引き継いだクセノクラテス、またプラトンの死後、学園を後にするまで二十年にわたってアカデメイアで学び教えたアリストテレスのように重要な哲学者たちが活動していた。多くのメンバーは、後に世界のさまざまな地域において助言者として重要な政治的課題に取り組んだ。プラトンの教授活動の最初の二十年の間に、『メノン』『パイドン』『饗宴』の如き重要な対話篇が書かれた。おそらくはまた『パイドロス』と、とりわけ彼の主著とも呼ぶべき『国家』の如き理想国の構想がこの期間に属する。
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マクドナルドはマニュアル通り
憲法に対するテロ
日本でテロは起こっています。攻撃対象は憲法です。平和な暮らしを犯すということでは、完全なテロです。
マクドナルドはマニュアル通り
7時から11時まで元町スタバでの読書処理。元町のスタバは空いています。席が埋まっているけど、流動してないから、安心できます。昼飯は、隣のマクドナルドで200円バーガー。今回はカウンターに女性が居た。お客さは居ません。店内はスタバよりも少ない。
ビックリしたのは、注文が終わった後ン、「こちらによけて下さい」と言われた。並んでいる人もお客も居ないのに、「なぜ」。マニュアル通りなんですね。まともな働き手は今のマクドナルドには来ないんでしょう。スタバでは考えられない。
国民国家になる前の歴史
国民国家になる前の歴史。それは市民が見えていません。個人が見えません。民族国家ではなく、国民国家になってからの歴史をターゲットにします。
日本でテロは起こっています。攻撃対象は憲法です。平和な暮らしを犯すということでは、完全なテロです。
マクドナルドはマニュアル通り
7時から11時まで元町スタバでの読書処理。元町のスタバは空いています。席が埋まっているけど、流動してないから、安心できます。昼飯は、隣のマクドナルドで200円バーガー。今回はカウンターに女性が居た。お客さは居ません。店内はスタバよりも少ない。
ビックリしたのは、注文が終わった後ン、「こちらによけて下さい」と言われた。並んでいる人もお客も居ないのに、「なぜ」。マニュアル通りなんですね。まともな働き手は今のマクドナルドには来ないんでしょう。スタバでは考えられない。
国民国家になる前の歴史
国民国家になる前の歴史。それは市民が見えていません。個人が見えません。民族国家ではなく、国民国家になってからの歴史をターゲットにします。
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