『世界史の10人』より ナポレオン三世 甥っ子は伯父さんを超えられたのか?
国民国家の誕生
ボナパルト(以下、一世のことはこう呼ぶことにします)のやったことをひと言であらわすなら、「上からの革命」でしょう。フランス革命でアンシャン・レジーム(旧体制)が壊れて民衆のエネルギーが解き放たれ、内戦で二十万から三十万の人が死んでいます。この殺し合いのエネルギーを上手にすくい取って昇華させたのが、ボナパルトでした。
ルイ十六世もマリー・アントワネットもギロチンにかけられて、恐怖にかられたヨーロッパ列強の君主たちは、明日はわが身と恐れ、何度も対仏大同盟を結んではフランスを包囲します。そこにあらわれたボナパルトは、「フランスを守ろう」と煽って国内で争っていたエネルギーを外に向けようとする。周囲を敵に囲まれたフランスは団結して、「フランス国民」が誕生した。国民国家(ネーション・ステート)、ナショナリズムがここに産声をあげたのです。
ボナパルトは、フランス革命というビッグバンのエネルギーを外に向けることによって、フランスという国民国家をつくり上げました。そのエネルギーには凄まじいものがあって、あっという間にヨーロッパ大陸のほとんどを制して、フランスは大帝国となります。さらにボナパルトが消え去ったあとも、各国の民衆が自由を求めて反乱を起こすようになった。
ボナパルトのあとに一体何が残ったのかといえば、ひとつは国民国家、いまひとつは自由・平等・友愛の精神です。ボナパルトは類い稀な軍事的能力を駆使して、全ヨーロッパを支配し、ヨーロッパ中に、自由・平等・友愛というウイルスを撒き散らした結果、一挙に近代国家の大本となったネーション・ステートができ上がった。これが「上からの革命」です(ちなみに自由・平等・友愛のウイルスは南米にも飛び火しました)。十八世紀後半、「上からの近代化」を図ったエカチェリーナ二世など何人かの中欧の君主を「啓蒙専制君主」と呼ぶ向きもありますが、言葉の真の意味ではボナパルトほどの啓蒙専制君主は空前絶後でしょう。
ボナパルトはまた、ナポレオン法典をつくりました。この画期的な民法典によって私有権の概念が明確になり、資本主義や近代市民国家を形成するインフラができ上がりました。
彼をヨーロッパの歴史をつくった三人の偉大な皇帝のひとりに数えてもいいでしょう。その三人とは、カエサル、フェデリーコニ世、そしてナポレオンーボナパルトです。
泡沫候補が大統領に
一八四六年に父のルイがフィレンツェで亡くなります。このとき三世はアム監獄を脱走して父のもとに駆けつけようとするのですが、すでに父親の耳には、遊蕩のかぎりを尽くし、一揆を二度も起こして入獄中に私生児を産ませるなど、数々の息子のよからぬ行状が届いていたのでしょう。面会を拒絶したという記録が残っています。もっとも、オーストリア大使館に当時オーストリア領だったフィレンツエヘの渡航許可を拒否されたからだという説もあります。父の死によって三世にはまた遺産が転がり込みます。そして再びロンドンヘ。
ここで運命の女性、ミス・ハワードと出会います。元はコールガールで、富豪たちに貢がせてお金持ちになった彼女は、その後三世が政治活動をするときのスポンサーとなる重要な存在になります。
二年後の一八四八年、二月革命が起こり、ルイ・フィリップが王位を追われます。しばらくは混乱が続きますが、このときの三世は慎重に行動し、やがてロンドンから補欠選挙に立候補して、憲法制定議会の議員になる。一揆を起こすまで、フランスではボナパルトの名声こそ高かったものの、甥の三世の存在はほとんど知られていませんでした。それが裁判にかけられて演説をぶったりするうちに新聞にも報じられるようになり、少しずつ知名度も上がっていった。
新しく憲法がつくられ、第二共和政が成立すると、三世は大統領選に立候補します。そして、またたく間に大統領になってしまう。当初の泡沫候補が、ナポレオンの名声を武器に大統領にまでのぼりつめたわけです。もっとも、大統領の権限はたいしたことがなく、任期は四年で再選は禁じられていましたし、国会議員にもほとんど三世の味方はいない。
ここで彼は熟考します。
三世の義理の弟にド・モルニーという男がいました。母オルタンスがルイと別れて、再婚した相手との間に生まれた子どもです。そのド・モルニーと謀って三度目のターデタを起こそうとします。ただ、これまでの一揆と異なるのは、すでに彼が大統領の地位にあること。それでド・モルニーを内務大臣に据え、将軍や警視総監らとも綿密な計画を練って決行しています。
一八五一年十二月二日の早朝、大統領と内務大臣連名の布告が出され、議会解散と普通選挙の実施が命令されます。同時に警察が議員たちの寝込みを襲って逮捕、さらに警察が議員や蜂起した民衆に発砲して、数百名の死者を出す騒ぎにまで発展しています。まさに本格的なターデタが起きたのです。
カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』でこの事件を、「世界史上の有名人物は二度現れる。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として」と酷評しています。ちなみに「一度目の悲劇」というのは、ボナパルトがフランス革命(共和政)をクーデタで潰してしまったことを指しています。
マルクスの評価とはうらはらに、三世のクーデタはその後に行れた信任投票で圧倒的な支持を獲得し、翌五二年には新憲法を施行して、大統領任期を十年に引き上げ、権限を強化するほどまでになります。ドイツ語なまりでぼそぼそと話す三世は、討論や演説を苦手としていて、とても政治家向きではなかったようですが、じっと機をうかがって、チャンスとみれば一気呵成に勝負に出るしたたかさが、このころから備わってきたように見受けられます。
国民国家の誕生
ボナパルト(以下、一世のことはこう呼ぶことにします)のやったことをひと言であらわすなら、「上からの革命」でしょう。フランス革命でアンシャン・レジーム(旧体制)が壊れて民衆のエネルギーが解き放たれ、内戦で二十万から三十万の人が死んでいます。この殺し合いのエネルギーを上手にすくい取って昇華させたのが、ボナパルトでした。
ルイ十六世もマリー・アントワネットもギロチンにかけられて、恐怖にかられたヨーロッパ列強の君主たちは、明日はわが身と恐れ、何度も対仏大同盟を結んではフランスを包囲します。そこにあらわれたボナパルトは、「フランスを守ろう」と煽って国内で争っていたエネルギーを外に向けようとする。周囲を敵に囲まれたフランスは団結して、「フランス国民」が誕生した。国民国家(ネーション・ステート)、ナショナリズムがここに産声をあげたのです。
ボナパルトは、フランス革命というビッグバンのエネルギーを外に向けることによって、フランスという国民国家をつくり上げました。そのエネルギーには凄まじいものがあって、あっという間にヨーロッパ大陸のほとんどを制して、フランスは大帝国となります。さらにボナパルトが消え去ったあとも、各国の民衆が自由を求めて反乱を起こすようになった。
ボナパルトのあとに一体何が残ったのかといえば、ひとつは国民国家、いまひとつは自由・平等・友愛の精神です。ボナパルトは類い稀な軍事的能力を駆使して、全ヨーロッパを支配し、ヨーロッパ中に、自由・平等・友愛というウイルスを撒き散らした結果、一挙に近代国家の大本となったネーション・ステートができ上がった。これが「上からの革命」です(ちなみに自由・平等・友愛のウイルスは南米にも飛び火しました)。十八世紀後半、「上からの近代化」を図ったエカチェリーナ二世など何人かの中欧の君主を「啓蒙専制君主」と呼ぶ向きもありますが、言葉の真の意味ではボナパルトほどの啓蒙専制君主は空前絶後でしょう。
ボナパルトはまた、ナポレオン法典をつくりました。この画期的な民法典によって私有権の概念が明確になり、資本主義や近代市民国家を形成するインフラができ上がりました。
彼をヨーロッパの歴史をつくった三人の偉大な皇帝のひとりに数えてもいいでしょう。その三人とは、カエサル、フェデリーコニ世、そしてナポレオンーボナパルトです。
泡沫候補が大統領に
一八四六年に父のルイがフィレンツェで亡くなります。このとき三世はアム監獄を脱走して父のもとに駆けつけようとするのですが、すでに父親の耳には、遊蕩のかぎりを尽くし、一揆を二度も起こして入獄中に私生児を産ませるなど、数々の息子のよからぬ行状が届いていたのでしょう。面会を拒絶したという記録が残っています。もっとも、オーストリア大使館に当時オーストリア領だったフィレンツエヘの渡航許可を拒否されたからだという説もあります。父の死によって三世にはまた遺産が転がり込みます。そして再びロンドンヘ。
ここで運命の女性、ミス・ハワードと出会います。元はコールガールで、富豪たちに貢がせてお金持ちになった彼女は、その後三世が政治活動をするときのスポンサーとなる重要な存在になります。
二年後の一八四八年、二月革命が起こり、ルイ・フィリップが王位を追われます。しばらくは混乱が続きますが、このときの三世は慎重に行動し、やがてロンドンから補欠選挙に立候補して、憲法制定議会の議員になる。一揆を起こすまで、フランスではボナパルトの名声こそ高かったものの、甥の三世の存在はほとんど知られていませんでした。それが裁判にかけられて演説をぶったりするうちに新聞にも報じられるようになり、少しずつ知名度も上がっていった。
新しく憲法がつくられ、第二共和政が成立すると、三世は大統領選に立候補します。そして、またたく間に大統領になってしまう。当初の泡沫候補が、ナポレオンの名声を武器に大統領にまでのぼりつめたわけです。もっとも、大統領の権限はたいしたことがなく、任期は四年で再選は禁じられていましたし、国会議員にもほとんど三世の味方はいない。
ここで彼は熟考します。
三世の義理の弟にド・モルニーという男がいました。母オルタンスがルイと別れて、再婚した相手との間に生まれた子どもです。そのド・モルニーと謀って三度目のターデタを起こそうとします。ただ、これまでの一揆と異なるのは、すでに彼が大統領の地位にあること。それでド・モルニーを内務大臣に据え、将軍や警視総監らとも綿密な計画を練って決行しています。
一八五一年十二月二日の早朝、大統領と内務大臣連名の布告が出され、議会解散と普通選挙の実施が命令されます。同時に警察が議員たちの寝込みを襲って逮捕、さらに警察が議員や蜂起した民衆に発砲して、数百名の死者を出す騒ぎにまで発展しています。まさに本格的なターデタが起きたのです。
カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』でこの事件を、「世界史上の有名人物は二度現れる。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として」と酷評しています。ちなみに「一度目の悲劇」というのは、ボナパルトがフランス革命(共和政)をクーデタで潰してしまったことを指しています。
マルクスの評価とはうらはらに、三世のクーデタはその後に行れた信任投票で圧倒的な支持を獲得し、翌五二年には新憲法を施行して、大統領任期を十年に引き上げ、権限を強化するほどまでになります。ドイツ語なまりでぼそぼそと話す三世は、討論や演説を苦手としていて、とても政治家向きではなかったようですが、じっと機をうかがって、チャンスとみれば一気呵成に勝負に出るしたたかさが、このころから備わってきたように見受けられます。