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「戦略の本質」から見たローカルとグローバルの戦い

未唯へ。今週の本の中で一番、読むのに骨が折れたのは『戦略の本質』391.3ノナです。

戦略分析の事例として、歴史の中で、気になっている戦い「スターリングラード攻防戦」「バトル・オブ・ブリテン」「長征」「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」を扱っています。弱い者が強いものに勝ち得たかを分析しているが、その後のスターリンとは毛沢東を見ていると、ナチとの比較で弱かっただけです。

むしろ、勝つと思われていたものが、なぜ、負けたのかを知るには題材になります。

「長征」に代表される、中国の国民政府軍に対抗した毛沢東の反「包囲討伐」戦の分析をローカルとグローバルに読み替えてみました。
 「グローバルとローカルの関係については、ローカルのものはグローバルに従う。しかし、グローバルはローカルを離れて存立できず、あらゆるローカルによって構成されるものである。ローカルはグローバルに属するから、ローカル的戦争指導の規律と実行はグローバルの規律に従わなければならない。ローカルの立場から見て実行可能なもので、しかしグローバルから見ると適当ではないものはグローバルのために放棄すべきである。」
 要するに、ローカルからの突き上げで、グローバルが変えざるを得なくなったということです。
 ローカルで戦うのはやはり、戦術さえ間違えなければ、強いものです。

第2次世界大戦下でドイツ軍の侵攻をソ連軍が食い止め反撃に転じたスターリングラードの攻防戦、
 政治局員のフルッショフの存在が常に気になっている。スターリングラードには「督戦隊」が出ていたはずです。逃亡する兵士を銃殺にする役割を持っています。共産党管理であり、スターリンの命令であったので、フルッショフが積極的に関与していたはずです。ゆえに、フルッショフはスターリンのパージから逃れられたのと同時に、権力を掌握してからの「スターリン批判」につながった気がしました。

「朝鮮戦争」も「ベトナム戦争」もカタチを変えて、現在も継続しています。「逆転」しても、ローカルがグローバルの立場になると、歴史は繰り返します。

むしろ、フィンランドとロシア、そしてドイツが戦った「ラップランド戦争」から本質を求めていきたい。そこには、Local meets Globalの悲劇と同時に、Global meets Localのヒントがあると思われます。
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