スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京プリンセス賞&仲介

2024-04-26 19:22:55 | 地方競馬
 昨晩の第38回東京プリンセス賞
 キャッスルハートは発馬してすぐに控えました。発馬後に前にいこうとしたのはローリエフレイバーとイマヲトキメクとミスカッレーラとムサシジェリーナの4頭。ローリエフレイバーの逃げになり,行きたがるのを何とか抑えながらイマヲトキメクが2番手。3番手にミスカッレーラとなり,フォルトリアンが4番手に。フェルディナンドとムサシジェリーナが5番手を併走。2馬身差でシトラルテミニとプリンセスアリー。2馬身差でベイデンマリーナとウインアザレア。キャッスルハートは大きく離されました。最初の800mは52秒1のミドルペース。
 3コーナーからローリエフレイバー,イマヲトキメク,ミスカッレーラ,ムサシジェリーナと,発馬後に前にいこうとした4頭が雁行。2馬身差でフォルトリアンとフェルディナンドが併走となり,7番手以降とは差が開きました。直線に入るとローリエフレイバーとミスカッレーラの競り合いになり,ムサシジェリーナがそれを追いさらに外からフェルディナンド。ムサシジェリーナが脱落して3頭の競り合いになると大外からプリンセスアリーが追い込んできました。ミスカッレーラが脱落して優勝争いは残る3頭。最後にフェルディナンドが差し切って優勝。ローリエフレイバーが逃げ粘ってクビ差の2着。よく追い込んだプリンセスアリーがクビ差で3着。
 優勝したフェルディナンドは南関東重賞初制覇。東京2歳優駿牝馬は3着だったのですが,差がありましたから入着はあっても優勝までは厳しいのではないかとみていました。あまり速くないペースで瞬発力勝負になったのですが,その点がこの馬に向いたのではないかというのが僕の推測です。これまでのレースぶりからは僕にはもっと短い距離の方がよく思えるのですが,もしかしたら距離延長がプラスになったという可能性もありますので,このあたりは今後のレースをみてみないと何ともいえないところがあります。母の父はゴールドアリュール。祖母の父がエルコンドルパサー。7代母がヘザーランズで4代母が1990年のJRA賞で最優秀3歳牝馬に選出されたアグネスフローラ。Ferdinandoはイタリア語の男性名。
 騎乗した大井の安藤洋一騎手はデビューから14年10ヶ月で南関東重賞初勝利。管理している大井の藤田輝信調教師は南関東重賞26勝目。東京プリンセス賞は初勝利。

 『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが訪ねてくるという報知を,スピノザはシュラーGeorg Hermann SchullerおよびチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受け取ったとされています。これはたぶん事実です。ライプニッツはハーグDen Haagを訪問するにあたって,必ずスピノザと面会することができるのでなければ,訪問するという意味がありません。ですから事前に面会できるということの確認をしておく必要がありました。これはたぶんオルデンブルクHeinrich Ordenburgと会う場合にも成立するのであって,ライプニッツはオルデンブルクと面会することについて何らかの確約を得ていたから,ロンドンを訪れたのだと思います。
                                        
 ではどのようにスピノザと面会する確約を得るのかといえば,ライプニッツにとっては,チルンハウスに仲介してもらうほか方法がなかったように思えます。というのは,書簡七十の文面からして,シュラーはチルンハウスからの書簡によって,ライプニッツという人物がいるということを知ったと思われるからです。だから当然ですが,シュラーはライプニッツとスピノザとの間で,かつて文通がされていたということも知らなかったのです。このときはチルンハウスはすでにパリに到着していて,ライプニッツもパリにいたのです。それ以前に両者が会ったことがあるとか,書簡で何らかのやり取りをしていたとするなら,シュラーがライプニッツを知らないということはあり得ません。そうなると,書簡七十の文面はもっと違ったものになった筈です。したがって,ライプニッツがスピノザとの面会を,チルンハウスを通さずにシュラーに依頼するということはできません。むしろかつては文通をしていたのですから,スピノザ本人に伝える方が,ライプニッツにとっては簡単なことだったと思われます。いい換えれば,ライプニッツはチルンハウスにスピノザとの面会を仲介してもらい,その過程で,チルンハウスともスピノザとも親しかったシュラーとも仲介してもらったのです。つまり,ライプニッツとシュラーを結びつけたのはチルンハウスであったと考えなければなりません。
 アムステルダムAmsterdamに到着したライプニッツは,フッデJohann Huddeとシュラーを訪ねたということを,ナドラーSteven Nadlerは確定的に記述しています。
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