スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

大楠賞争奪戦&本性と意識

2024-05-14 18:48:06 | 競輪
 武雄記念の決勝。並びは根田‐深谷の南関東に阿部‐大槻の宮城,志田‐浅井の中部,清水の後ろは稲川と山田で競り。
 阿部がスタートを取って根田の前受け。5番手に清水,8番手に志田で周回。志田から動いて誘導が退避するタイミングで根田を叩きました。叩いたタイミングで清水が発進。このタイミングに山田が合わせられず,番手はすんなりと稲川。清水が志田を叩いて打鐘。引いた根田が発進していくと叩かれた志田もすぐに巻き返していき,ホームでは清水,志田,根田が併走する形に。この先行争いを制したのは清水。根田は叩けずバックで一杯となったので深谷が番手から発進。深谷のスピードが上回り,きれいに捲って優勝。マークの阿部が1車身半差の2着。大槻も半車身差の3着に続いてこのラインで上位独占。
                                        
 優勝した静岡の深谷知広選手は昨年11月に前橋のFⅠを完全優勝して以来の優勝。グレードレースは9月の共同通信社杯以来。記念競輪はその直前の松戸記念以来となる20勝目。武雄記念は初優勝。このレースは根田がどういう走りをするかが最大の注目で,すんなりと先行すれば,番手の深谷が圧倒的に有利だろうと思っていました。清水が抵抗したため,地脚はあってもスプリントの脚力では劣る根田は不発に終わったのですが,清水がそこで脚を使ったということもあり,自力に転じるとあっさりと捲り切ることに成功しました。ラインで上位独占という結果になったのは,こういう展開になった影響が大きかったと思います。ただ,根田にすんなりと先行させては上位には入れても優勝は難しいでしょうから,優勝するための作戦として,清水の走行もありだとは思います。

 スピノザの哲学では,欲望cupiditasは人間の現実的本性actualis essentiaを意味することになっています。これは第三部諸感情の定義一から明らかです。したがってスピノザは,第三部定理九備考では,人間の本性natura humanaというのを,意識conscientiaを加味した上で規定していることになります。衝動appetitusと欲望の相違はそれが意識されているかいないかという点にあるのであって,かつ人間の現実的本性としての感情affectusと規定されているのは,衝動ではなくて欲望であるからです。國分はこの点に注目します。なぜなら,人間の本性が欲望であり,欲望が意識を伴った衝動であるとするなら,人間の本性は意識を伴っているということができるからです。
 第三部定理六に示されているコナトゥスconatusは,無意識すなわち衝動に該当すると僕はいいました。しかしこの僕の見解opinioと,國分が指摘していることは両立します。なぜなら,第三部定理六というのは現実的に存在するすべての個物res singularisに妥当するのですが,スピノザが欲望といっている感情は,その定義Definitioから分かるように,すべての個物に妥当するような欲望のことをいうのではなく,とくに人間だけに妥当する欲望であるからです。第三部定理六でいわれているコナトゥスは,現実的に存在する個物のすべてに妥当する現実的本性ですから,この現実的本性が,個物である人間にも適用されることは間違いありません。この意味では確かに衝動もまた人間の現実的本性であるといわれるべきであって,現実的に存在する人間は,そのことを意識しているかいないかということとは関係なく,自己の有esseに固執するperseverareのです。しかしそのことがその人間によって意識されると,それは人間にとっての欲望といわれるのであって,この欲望はすべての個物に妥当する現実的本性ではなく,人間の現実的本性を構成するとスピノザはいっていると解することができるでしょう。よって,無意識の衝動は人間が現実的に存在する個物としての現実的本性であるとはいえますが,現実的に存在する人間に特有の本性は衝動が意識された欲望であるということになります。つまり國分の注目している,人間の本性には意識が伴うという点と,僕が衝動をコナトゥスと等置することと両立することになるのです。
コメント
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