スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&第一部定理二五系

2007-11-01 20:15:09 | 将棋
 伊勢神宮への奉納将棋として指された竜王戦七番勝負第二局。
 先手の渡辺明竜王の封じ手は☗5八金。これは実戦のように馬を作られるので意外な手ですが,作られても大丈夫とみてのものでしょう(作戦負けと見てポイントを稼ぎにいったそうです)。この後,先手も馬を作り,さらに双方が金銀4枚で固め合うという将棋になりました。
 後手の佐藤康光二冠は74手目に☖8四歩。ここは穴熊の急所とされる地点で,こんなところからいく手は普通はないと思うのですが,ここは後手の方がいいんだそうです。第一局の☗9六歩を髣髴とさせる手でした。
 この後,81手目に▲4三とと捨てたのは,この局面,後手は実戦のように☖7八桂成と金をとるより,☖9八歩から香車を外す方が有力に思えますので,△7八桂成を強要したという意味で好手だったのではないかと思います(好手だったようです)。
 僕が観戦を始めたのは119手目に☗2二龍とした局面で,ここは先手が勝つのではないかと思えました。後手は☖8五香と反撃し,先手は125手目に☗5二馬と踏み込みました。☖5九馬が☖8六桂からの詰めろになり,☗6八銀と打つのと,☗9五香と王手するふたつははっきりダメで,いきなりピンチ☗8七歩と受けましたが,☖7三飛に☗6九金と受けに回るようでは変調。ここからは,自玉に詰みがないのを読みきった後手が,先手玉を攻め込み,投了に追い込みました。
 先手の敗因ですが,いくつか考えられます。①僕が見始めた☗2二龍の時点では実はもう先手が苦しかった。僕の大局観などあてになりませんので,これは大いにありそうです(ここで佐藤二冠は負けを覚悟したとのことですので,僕の最初の見立ては合っていたようです)。②125手目の☗5二馬が敗着。☖5九馬を見落とすことはありそうで,これも可能性はありそうです(☖5九馬は軽視していたようです。☗7七銀打の方がよかったとのこと。しかしまだ先手の勝ちです)。③127手目の☗8七歩が敗着。ここで☗6八金と引くのはありそうなのですが,それでも苦しいようには思えますが…。④129手目の☗6九金が敗着(これが最終的な敗着で,☗6八銀とすべきだったそうです。ただ,ここで受けなければいけないのであれば,☗5二馬の方が問題であったと個人的には感じます)。可能性としてあげておきますが,この局面は後手玉への攻めが続くかどうかは渡辺竜王クラスなら読み切れる筈で,それを受けたわけですから可能性としては低いでしょう。後に詳しい解説がアップされると思いますので,そうしたら()内に追記します(これは僕の類推ですが,☗6九金の後,後手から☖8九銀とする手は僕でも分かる手で,これを渡辺竜王が見落とすとは考えづらいです。☗6九金に☖8九銀なら☗7九玉で大丈夫とみての着手で,☗7九玉のときに☖8七桂と打つために,☖8九銀の前に☖8六桂と捨てる手をうっかりしたのではないかと思います。あるいは127手目に☗8七歩と打っておいたので,後手からの☖8六桂はないものと思い込んでしまったのかもしれません)。(追記の追記です。渡辺竜王の自戦記によると,やはり最終的に敗着となった☗6九金よりは☗5二馬の方を後悔していて,☖5九馬は見落としていたようです。ただ僕の類推は明らかに間違いで,渡辺竜王は☖8九銀も☖8六桂も読んでいたのですが,☖8六桂は☖8七銀との組合せで,☖8九銀はそれ単独で,それぞれ別個に読み,どちらも大丈夫と判断してしまったようです。☖8六桂と☖8九銀という組合せが,思考のエアポケットに入ってしまったということなのでしょう)。
 ともあれこれで1勝1敗。不振といえる佐藤二冠にとっては,復調へのきっかけになりそうな1勝だったという気はします。第三局は13日と14日です。

 明日はふるさとダービー2日目メインの蒲生氏郷杯です。並びは渡辺一成-伏見-佐藤-斉藤の北日本,平原-後閑の埼京,残った村上に渡辺晴智-勝瀬の南関東。邪魔される要素が少なそうなのでここは伏見選手が中心。

 第一部定義五の意味というのはこれでよいと思うのですが,これだけですとここでの考察にはまだ十分であるとはいいがたいと思います。というのは,精神mensが思惟の様態cogitandi modiであるというとき,それはすべての精神が思惟の実体substantia,実在的に考えるならば思惟の属性Cogitationis attributumがなければあることも考えられることができないということが分かっただけでは,なぜそのことによって精神はある観念ideaを形成するといい得るのかを,それ自体で説明しているとはいえないように思われるからです。したがって,この点に関して,精神が思惟の様態であるということの意味を,もう少し検討してみなければならないだろうと思います。
 第二部定義三でスピノザが精神というとき,僕はスピノザは個物res singularisとしての精神を念頭に置いていると思います。もちろん僕は同時に,無限なものとしての精神というものがあると考えてはいます。というのは,すべての形相的有esse formaleはその客観的有esse objectivumと合一していて,この合一unioを,思惟の属性の観点からみた場合に精神というということにスピノザの哲学ではなっていますので,形相的にformaliter無限様態modus infinitusがあればその精神があると考えるのが自然だと思うからです。しかしここでは,そのことを離れて,様態のうちの有限様態としての個物について考察することにします。
 個物の定義Definitioは第二部定義七ですが,ここでは第一部定理二五系の方を利用します。
 「個物は神の属性の変状,あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態,にほかならぬ(Res particulares nihil sunt, nisi Dei attributorum affections, sive modi, quibus Dei attributa certo, et deteaminato modo exprimuntur.)」。
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