スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡三十三&より多く

2023-05-23 19:03:04 | 哲学
 書簡六十二の冒頭には,往復書簡が再開されたことが書かれています。ひとつ前の書簡六十一が1675年6月8日付で,久々にオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたものでした。『スピノザ往復書簡集Epistolae』に残されているもののうち,1665年12月8日付でオルデンブルクからスピノザに宛てられたものです。本当にこれ以外に書簡がなかったのだとすれば,9年半にわたって文通は停止されていたことになります。
                                        
 書簡三十三というのは書簡三十二への返信です。最初の部分がとくにそれに該当し,スピノザが自身の学説,これは哲学のうちとくに自然学と関連を有する部分に言及したことに対するものです。ただしその内容からして,オルデンブルクはスピノザの哲学を十分に理解することができなかったことを窺わせます。たとえばスピノザはデカルトRené Descartesの運動motusの規則の一部は誤りerrorで,そのスピノザの考えにホイヘンスChristiaan Huygensも同意しているという主旨のことをいったのですが,オルデンブルクはそれを,スピノザが,デカルトとホイヘンスの運動の規則が誤りであるといっているという意味に取り違えています。
 ホイヘンスはこの手紙が書かれる前にロンドンに行って,実験を行ったようです。オルデンブルクはそれには立ち会っていなかったようですが,実験の内容については説明しています。実はこの時代はヨーロッパでペストが流行していました。スピノザも一時的に友人の家に避難していたのですが,イギリスの王立協会も一時的にロンドンを離れていたようです。それが下火になったのでロンドンに戻ることになったとされていますので,オルデンブルクがホイヘンスに会えなったのはこの事情によるものでしょう。
 この後にロバート・ボイルRobert Boyleからオルデンブルクに報知されたふたつのことが書かれています。ひとつは羊や牛の器官が草で詰まっているという解剖学上の発見で,もうひとつは血液の中に乳があるという医学上の発見です。
 最後に政治上の問題として,ユダヤ人のパレスチナへの帰還に関する噂が記されています。オルデンブルクはこのことに関心を抱いていたようで,アムステルダムAmsterdamのユダヤ人がどう受け取っているかを知りたいので,教えてほしいということをスピノザに依頼しています。この部分は僕には不思議に感じられますので,いずれその不可解さを説明することにします。

 現実的に存在する人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusに刺激されるafficiと,その人間の精神mens humanaのうちには,その物体が現実的に存在するという観念ideaが生じます。これは第二部定理一七でいわれていることです。そしてこれは混乱した観念idea inadaequataです。こちらは第二部定理二五でいわれていることです。
 ただし,現実的に存在する人間の身体が外部の物体から刺激を受けたとき,その人間の精神のうちに生じる表象像imagoは,その外部の物体の表象像だけではありません。この人間は自分の身体も現実的に存在すると知覚します。これは第二部定理一九でいわれていることです。そして当然ながらこの表象像も混乱した観念です。これは第二部定理二七でいわれていることです。
 もしも第二部定理一六系二で,僕たちの身体の状態をより多く表示しているということのうちに何か意味を見出すのであるなら,このことは外部の物体の表象像にだけ関係することになります。そこに意味があるのであれば,自分の身体の表象像についてはそれとは逆のこと,すなわちそれは自分の身体の本性naturaよりも外部の物体の状態をより多く表示しているといわれなければならないからです。
 しかし,現実的に存在する人間の身体が外部の物体に刺激されたときに,その人間の精神のうちに生じる表象像を,別々の秩序ordoで考えることはできません。この事象が生じたときには,その人間の精神のうちには,外部の物体の表象像と自分の身体の表象像が同時に生じるのであって,それは同じ秩序の下で生じることになるからです。よって,自分の身体の状態をより多く表示する場合と,外部の物体の状態をより多く表示する場合が,別々に存在するということはないのです。いい換えれば,外部の物体を表象しようと自分の身体を表象しようと,表示されているものは同じであると考えなければなりません。そうでないのなら第二部定理一六系二は,第二部定理一七とだけ関係して第二部定理一九とは関係しないといわなければなりませんが,それをいうのは無理があります。
 よって,第二部定理一六系二で,僕たちの身体の状態をより多く表示するというとき,より多くということに特別な意味はないというべきです。
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