先月の埼玉栄冠賞ではクレイアートビュンが南関東重賞初制覇を達成しましたが,この馬の父はトーホウエンペラーといって,近年の地方競馬の名馬の1頭です。
競走馬としての生活は,ずっと岩手県競馬で送りました。
デビューは非常に遅く3歳の12月31日。ここから4歳6月にかけて9連勝。その後,岩手の重賞も含め17戦14勝という戦績をひっさげ全国デビューを果したのが5歳6月の帝王賞。ここは5着に敗れましたが,初の強敵相手を考えれば,その後の活躍を十分に予感させました。
その後は水沢のマーキュリーカップ3着,札幌のエルムステークス2着,地元重賞を挟んで盛岡の南部杯は2着となかなか重賞は勝てませんでしたが11月の新潟の朱鷺大賞典で重賞初制覇。浦和記念は2着でしたが東京大賞典で大レースも制覇しました。
6歳になりフェブラーリーステークスは5着。しかし続く名古屋大賞典を勝ち,帝王賞に。これは休み明けもあり5着になってしまいましたが,10月の南部杯を勝って大レース2勝目。中山でのジャパンカップダート6着の後,ゴールドアリュールが勝った東京大賞典で8着と大きく崩れ,これで引退しました。
地方競馬のこうした名馬というのは,質的にも量的にも繁殖牝馬が集まりにくいという面があります。そうした中からクレイアートビュンのような活躍馬が出たことは,とても喜ばしいことと思います。
それでは今度は人間の精神が自分の精神について知覚するということについて考えていきます。この場合にも,自分の身体の知覚を示している第二部定理一九と同様に,このことだけをそれ自体で示している定理が『エチカ』の中にはありませんから,第二部定理二三を援用することにします。
「精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する」。
この定理に関してはいくつかの説明が必要かと思います。
まず最初に,ここでスピノザが身体の刺激状態の観念を知覚するといっているとき,この知覚は,ここで僕がいっている,表象の種類としての知覚を意味しているのではなく,むしろ単に認識するというほどの意味です。表象の種類のひとつとして知覚をあげているのは,僕の説明の仕方であって,この点についてはスピノザに依拠しているわけではありませんから注意しておいてください。
次に,ここでスピノザが自分自身といっているのは,自分の精神のことです。人間というのは身体と精神が合一することによって現実的に存在する個物ですから,なぜ人間の身体についてはあたかも無視し,単に人間の精神のことだけを自分自身とスピノザがいっているのか僕にはその理由がよく分かりませんが,少なくともこの定理における自分自身というのが,人間の精神,とくに自分の精神であるということについては,そう理解しなければ全体の意味が成立しませんので,間違いないところと思います。
競走馬としての生活は,ずっと岩手県競馬で送りました。
デビューは非常に遅く3歳の12月31日。ここから4歳6月にかけて9連勝。その後,岩手の重賞も含め17戦14勝という戦績をひっさげ全国デビューを果したのが5歳6月の帝王賞。ここは5着に敗れましたが,初の強敵相手を考えれば,その後の活躍を十分に予感させました。
その後は水沢のマーキュリーカップ3着,札幌のエルムステークス2着,地元重賞を挟んで盛岡の南部杯は2着となかなか重賞は勝てませんでしたが11月の新潟の朱鷺大賞典で重賞初制覇。浦和記念は2着でしたが東京大賞典で大レースも制覇しました。
6歳になりフェブラーリーステークスは5着。しかし続く名古屋大賞典を勝ち,帝王賞に。これは休み明けもあり5着になってしまいましたが,10月の南部杯を勝って大レース2勝目。中山でのジャパンカップダート6着の後,ゴールドアリュールが勝った東京大賞典で8着と大きく崩れ,これで引退しました。
地方競馬のこうした名馬というのは,質的にも量的にも繁殖牝馬が集まりにくいという面があります。そうした中からクレイアートビュンのような活躍馬が出たことは,とても喜ばしいことと思います。
それでは今度は人間の精神が自分の精神について知覚するということについて考えていきます。この場合にも,自分の身体の知覚を示している第二部定理一九と同様に,このことだけをそれ自体で示している定理が『エチカ』の中にはありませんから,第二部定理二三を援用することにします。
「精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する」。
この定理に関してはいくつかの説明が必要かと思います。
まず最初に,ここでスピノザが身体の刺激状態の観念を知覚するといっているとき,この知覚は,ここで僕がいっている,表象の種類としての知覚を意味しているのではなく,むしろ単に認識するというほどの意味です。表象の種類のひとつとして知覚をあげているのは,僕の説明の仕方であって,この点についてはスピノザに依拠しているわけではありませんから注意しておいてください。
次に,ここでスピノザが自分自身といっているのは,自分の精神のことです。人間というのは身体と精神が合一することによって現実的に存在する個物ですから,なぜ人間の身体についてはあたかも無視し,単に人間の精神のことだけを自分自身とスピノザがいっているのか僕にはその理由がよく分かりませんが,少なくともこの定理における自分自身というのが,人間の精神,とくに自分の精神であるということについては,そう理解しなければ全体の意味が成立しませんので,間違いないところと思います。