スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&個物の存在

2012-03-17 19:00:55 | 将棋
 将棋まつりに合わせて宇都宮市での対局となった第37期棋王戦五番勝負第四局。
 久保利明棋王の先手で三間飛車。郷田真隆九段は☖8五歩から角交換する指し方を採用。結果的に升田式石田流の定跡形に進みました。先手からの仕掛けに後手が新趣向で対応するという中盤戦。後手が先に角を打ち,先手が飛車を動かして戦機を掴もうとする中盤戦に。
                         
 ここで先手は☗4五歩と打診。後手は☖同角。これで9筋方面への脅威が緩和されました。動くチャンスではあり☗8五銀。後手は☖9三桂と催促するような一手。☗9六銀の方が普通に思えますが☗9六飛と飛車を捌きにいく方を選びました。香車を守って☖8一飛。ここでも銀を逃げずに☗9二歩と打ちました。そこで後手は☖8五桂。この手に対しては☗9一歩成としなければ変だと思うのですが☗同桂として,☖8四飛に☗8六飛と受けました。捌きを狙った筈ですからこれは変調だと思います。後手は☖9二香☗同香成と捨てて☖9五銀。先手は一旦は☗9三角と打ち,☖8三飛としてから☗7六飛と逃げました。後手は当然☖8五飛で,☗7八飛。
                         
 後手が駒得で歩得。しかも大駒の働きでも勝っていますから,この局面はさすがに後手がいいでしょう。先手としてもこういう展開は予期していなかった筈で,どこかで誤算に気付いたのだと思いますが,修正が効かなくなってしまっていたようです。最終的には見た目よりも大きな差となってしまい,後手が勝ちました。
 3勝1敗として郷田新棋王が誕生。棋王は初戴冠で,タイトル獲得数は合計で4期となりました。一方の久保前棋王は短期間の間にすべてを失ってしまったかのよう。しかし倒れたのならまた起き上がればいいのです。砂を掴んで立ちあがれ。

 第二部定理八が,スピノザの哲学において個物rerum singulariumが存在existentiumするといわれるとき,そこには実はふたつの場合,あるいは二様の意味があるのだということを示しているのは,僕には明らかなことに思えます。すなわち,まず個物は,現実的に存在する,いい換えれば一定の持続duratioのうちに存在するという意味で存在します。そしてこの場合,この個物の本性自体のうちに,その個物が持続するものであるということが含まれるのだと僕は考えます。よってこうした観点から個物を認識するという場合には,それは第二部定理四四系二によって,この認識は理性の本性natura Rationisに属するような認識ではないということになるのです。
 しかし一方で,ある個物Xというのが概念可能な個物であるという場合に,そのXが現実的に存在はしていないというとき,この個物は存在しないといわれるのかというと,そうではありません。それは単に現実的に存在しないというだけの意味なのであって,この個物の形相的本性essentiae formalesというものが,神Deiのある属性attributaのうちに包含されているという意味においては,むしろ存在しているといわれるのです。そしてこれがスピノザの哲学において個物が存在するといわれるときの,もうひとつの意味であると僕は考えています。その個物を包含するような属性というのは,第二部定理六により,この意味で存在するといわれる個物が,神のどの属性の個物であるのかということに依拠することになるでしょう。たとえばもしもその個物が物体corpusであるなら,それは神の延長の属性Extensionis attributumのうちに包含されているということになります。
 これが実例として相応しいかどうかは分かりませんが,あえて説明すれば,たとえば恐竜というのは現在は現実的には存在していません。しかし,だから恐竜は存在しないということになるかといえば,少なくともスピノザの哲学においてはそうではないのです。確かに現在,ある一定の持続のうちに存在している恐竜というのはありません。しかし恐竜の形相的本性は,神の延長の属性のうちに包含されているという意味においては,存在しているのです。
 このとき,第二の場合の意味において個物が存在するといわれるとき,その個物は,永遠という観点species aeternitatisから認識されなければならないのではないかと僕は思うのです。
コメント
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