スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ウラズミーヒン&コナトゥス

2017-09-02 19:15:45 | 歌・小説
 『罪と罰』におけるラスコーリニコフの唯一の親友といってもよいラズミーヒンは,小説内でもラズミーヒンと記述されているのですが,本当は別の名前です。
 第二部3章で,ラスコーリニコフの家に,ラスコーリニコフと女中のナスターシヤ,用事があって訪ねてきた組合員が滞在しているところへラズミーヒンが訪れるという場面があります。このとき初対面の組合員に対してラズミーヒンが自己紹介をします。ここでラズミーヒンは自分の名を,ウラズミーヒンと名乗り,人は自分のことをラズミーヒンと呼んでいるけれども正しくはウラズミーヒンであるという意味のことを繰り返して言います。
 『罪と罰』の中でラズミーヒンがウラズミーヒンと表記されているのは,この場面だけです。つまりこの男の本名はウラズミーヒンであるのですが,ほかの部分ではすべてラズミーヒンと書かれています。これはだれかがラズミーヒンに呼び掛ける場面でもそうですし,小説の地の文章でもそうなっています。なのでこの部分のラズミーヒンが自己紹介をするプロットは,僕にはまったく意味が分かりません。
                                     
 謎ときシリーズの『謎とき『罪と罰』』によれば,ラズミーヒンとウラズミーヒンでは,その名の語源となる語が異なるのだそうです。ラズミーヒンの語源となるロシア語はラーズムで,これは理性を意味するそうです。一方,ウラズミーヒン,江川卓はヴラズミーヒンと表記していますが,こちらの語源となるロシア語はヴラズミーチという動詞で,これは教訓を述べるとか教え導くというような意味があるようです。
 江川はこのことをラスコーリニコフの名前と絡めて言及していますが,僕はロシア語には詳しくないので,その論考の正否はまったく分かりません。ただ,何の意味もないエピソードがプロットに組み込まれるとは考えにくく,ドストエフスキーに何らかの意図があったのは間違いないと思います。

 現実的に存在する個物res singularisが自己の有esseに固執するperseverare傾向conatusのことは,岩波文庫版の『エチカ』では努力といわれています。僕がこのブログで傾向といったり自己保存といったりしているのは,努力という訳語を好まないからです。なぜかというと,努力という語句は,何らかの意志作用volitioと関連させられて解されるという印象があるからです。つまり現実的に存在する個物が自己の有に固執することに努めるとか,自己の有に固執する努力をするといわれるなら,あたかもその個物がそうしようとしてそうしているというような印象を受けてしまうのです。しかしこれは誤りerrorです。個物はそうしようとしてそうしているのではなく,現実的に存在する限りは必然的にnecessarioそうするのだからです。この誤った解釈を避けるために,僕はこれを傾向といったり自己保存といったりしてきたのでした。
 ですが,河井の論考によって教えられるのは,これを傾向とか自己保存という語句で示すと,今度はそれが力potentiaであるという側面が見失われてしまうということです。確かに一般にAという事物にXという傾向があるというなら,僕たちはそれをAの力としては把握し難いといえるでしょう。僕が力の発見というのはこの事態のことを多く意味しています。そして第三部定理七は,確かにそれが力であることを意味しなければならないのです。なぜなら,ここでは個物の現実的本性actualis essentiaについて語られているのですが,矛盾のない本性を有するものは必然的に完全性perfectioすなわち実在性realitasを有していると考えなければならないからです。何度もいっているように,僕は事物の実在性とは,力という観点からみられる限りにおいてのその事物の本性にほかならないと考えているからです。
 したがって,自己の有に固執する傾向が個物の現実的本性であるなら,これは力という観点からみられる限りでの個物の現実的実在性なのです。この意味において,個物の現実的本性と現実的存在が一致するという河井の解釈は正当化できると僕は考えます。そして僕も,力という観点を見失わないようにするために,これからは傾向とか自己保存とは原則的にはいわず,コナトゥスというラテン語そのままに表記することにします。
コメント
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