昨日の第29回NHKマイルカップ。
アルセナールは伸び上がるような発馬で1馬身の不利。4頭ほど前にいこうとしましたが,ボンドガール,キャプテンシー,マスクオールウィン,イフェイオンの順になり,さらにキャプテンシーが前に出ての逃げになりました。アスコリピチェーノとジャンタルマンタルは並んでその後ろを追走。ロジリオンとエンヤラヴフェイスも併走で続き,ノーブルロジャーがその後ろ。チャンネルトンネルとゴンバデカーブースは併走。ダノンマッキンリーを挟んでディスペランツァとウォーターリヒト。アレンジャーとユキノロイヤルも併走で続き発馬で不利があったアルセナール。シュトラウスは3馬身ほど離れた最後尾を追走。前半の800mは46秒3のミドルペース。
直線の入口ではキャプテンシーとマスクオールウィンは併走となり,ボンドガールはこの2頭の内へ。しかし前の4頭の後ろにいたジャンタルマンタルがこれらの外から楽に先頭に立つと,てそのまま抜け出して快勝。ジャンタルマンタルをマークするようなレースになったロジリオンが2番手に上がりましたが,ジャンタルマンタルの内にいたため進路がなかったアスコリピチェーノが,やや強引に最内に進路を取り,フィニッシュ前にロジリオンを差して2馬身半差の2着。ロジリオンがクビ差の3着で外から追い上げてきたゴンバデカーブースがクビ差で4着。
優勝したジャンタルマンタルは朝日杯フューチュリティステークス以来の勝利で大レース2勝目。このレースは昨年の牡牝の2歳チャンピオンで,皐月賞3着のジャンタルマンタルと桜花賞2着のアスコリピチェーノの争い。アスコリピチェーノは今年の2戦目で,レース間隔はアスコリピチェーノの方が長く,アスコリピチェーノの桜花賞よりジャンタルマンタルの皐月賞の方が厳しい内容であったため,総合的にはアスコリピチェーノの方が有利かと思っていたのですが,アスコリピチェーノが直線で前が詰まってしまったこともあり,思ったより差がついてジャンタルマンタルの勝利となりました。2000mでも対応できることは皐月賞でも示しましたが,この距離の方がよいということなのでしょう。この路線ではかなりの活躍が見込める馬なのではないかと思います。Jantar Mantarはインドの天体観測施設。
騎乗した川田将雅騎手は羽田盃以来のの大レース44勝目。第27回以来となる2年ぶりのNHKマイルカップ2勝目。管理している高野友和調教師は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース7勝目。NHKマイルカップは初勝利。
『エチカ』の草稿の発見に関する事柄はここまでとします。次に以下のことを探求します。
『スピノザー読む人の肖像』の第4章2節の終わりから3節にかけて,スピノザの哲学における意識conscientiaと欲望cupiditasの関係が詳しく説明されています。僕は意識と欲望を関連させて考えたことはありませんでしたので,ここでの國分の議論に沿って,なぜそのふたつが関連づけられるのかということを考察していきます。
スピノザの哲学でいわれる意識というのは,観念の観念idea ideaeを意味します。これは僕もこのブログの中で何度かいったことがあるかと思います。國分はこのような見解opinioは,ドゥルーズGille Deleuzeが示した見解の影響が強いといっています。ドゥルーズは確かに意識というのは観念の観念であるという意味のことをいっています。ただしドゥルーズは,観念の観念のすべてが意識といわれるわけではないとしています。ドゥルーズがいっているのは,身体の変状の観念ideae affectionum corporis,すなわち現実的に存在する人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusによって刺激されるafficiことの観念の観念を意識とみなすということであって,それとは別種の観念の観念もありますから,そうしたものについては必ずしも意識とは規定しないのです。ただしこのことの妥当性についてはここでは検討しません。僕もドゥルーズの影響を受けているということについては否定しきれませんが,僕は観念の観念を意識とみなすことについては,別の観点から理解しているからです。
観念の観念を意識とみなすのであれば,観念はどのようにみられるべきなのかということが問題として残ります。そしてこの問題については,僕はそれを無意識とみなします。スピノザの哲学では,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにXの観念があれば,その人間の精神のうちにXの観念の観念もあることができる,というか必然的にnecessarioあるということになっています。これを無意識と意識に分けていえば,現実的に存在する人間の無意識は,すべて意識化することが可能であるという意味になります。ただしこれは理論上はそれが可能であるということであって,現実的に存在する人間が,自身の無意識をすべて意識化するということを意味するわけではありません。
アルセナールは伸び上がるような発馬で1馬身の不利。4頭ほど前にいこうとしましたが,ボンドガール,キャプテンシー,マスクオールウィン,イフェイオンの順になり,さらにキャプテンシーが前に出ての逃げになりました。アスコリピチェーノとジャンタルマンタルは並んでその後ろを追走。ロジリオンとエンヤラヴフェイスも併走で続き,ノーブルロジャーがその後ろ。チャンネルトンネルとゴンバデカーブースは併走。ダノンマッキンリーを挟んでディスペランツァとウォーターリヒト。アレンジャーとユキノロイヤルも併走で続き発馬で不利があったアルセナール。シュトラウスは3馬身ほど離れた最後尾を追走。前半の800mは46秒3のミドルペース。
直線の入口ではキャプテンシーとマスクオールウィンは併走となり,ボンドガールはこの2頭の内へ。しかし前の4頭の後ろにいたジャンタルマンタルがこれらの外から楽に先頭に立つと,てそのまま抜け出して快勝。ジャンタルマンタルをマークするようなレースになったロジリオンが2番手に上がりましたが,ジャンタルマンタルの内にいたため進路がなかったアスコリピチェーノが,やや強引に最内に進路を取り,フィニッシュ前にロジリオンを差して2馬身半差の2着。ロジリオンがクビ差の3着で外から追い上げてきたゴンバデカーブースがクビ差で4着。
優勝したジャンタルマンタルは朝日杯フューチュリティステークス以来の勝利で大レース2勝目。このレースは昨年の牡牝の2歳チャンピオンで,皐月賞3着のジャンタルマンタルと桜花賞2着のアスコリピチェーノの争い。アスコリピチェーノは今年の2戦目で,レース間隔はアスコリピチェーノの方が長く,アスコリピチェーノの桜花賞よりジャンタルマンタルの皐月賞の方が厳しい内容であったため,総合的にはアスコリピチェーノの方が有利かと思っていたのですが,アスコリピチェーノが直線で前が詰まってしまったこともあり,思ったより差がついてジャンタルマンタルの勝利となりました。2000mでも対応できることは皐月賞でも示しましたが,この距離の方がよいということなのでしょう。この路線ではかなりの活躍が見込める馬なのではないかと思います。Jantar Mantarはインドの天体観測施設。
騎乗した川田将雅騎手は羽田盃以来のの大レース44勝目。第27回以来となる2年ぶりのNHKマイルカップ2勝目。管理している高野友和調教師は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース7勝目。NHKマイルカップは初勝利。
『エチカ』の草稿の発見に関する事柄はここまでとします。次に以下のことを探求します。
『スピノザー読む人の肖像』の第4章2節の終わりから3節にかけて,スピノザの哲学における意識conscientiaと欲望cupiditasの関係が詳しく説明されています。僕は意識と欲望を関連させて考えたことはありませんでしたので,ここでの國分の議論に沿って,なぜそのふたつが関連づけられるのかということを考察していきます。
スピノザの哲学でいわれる意識というのは,観念の観念idea ideaeを意味します。これは僕もこのブログの中で何度かいったことがあるかと思います。國分はこのような見解opinioは,ドゥルーズGille Deleuzeが示した見解の影響が強いといっています。ドゥルーズは確かに意識というのは観念の観念であるという意味のことをいっています。ただしドゥルーズは,観念の観念のすべてが意識といわれるわけではないとしています。ドゥルーズがいっているのは,身体の変状の観念ideae affectionum corporis,すなわち現実的に存在する人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusによって刺激されるafficiことの観念の観念を意識とみなすということであって,それとは別種の観念の観念もありますから,そうしたものについては必ずしも意識とは規定しないのです。ただしこのことの妥当性についてはここでは検討しません。僕もドゥルーズの影響を受けているということについては否定しきれませんが,僕は観念の観念を意識とみなすことについては,別の観点から理解しているからです。
観念の観念を意識とみなすのであれば,観念はどのようにみられるべきなのかということが問題として残ります。そしてこの問題については,僕はそれを無意識とみなします。スピノザの哲学では,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにXの観念があれば,その人間の精神のうちにXの観念の観念もあることができる,というか必然的にnecessarioあるということになっています。これを無意識と意識に分けていえば,現実的に存在する人間の無意識は,すべて意識化することが可能であるという意味になります。ただしこれは理論上はそれが可能であるということであって,現実的に存在する人間が,自身の無意識をすべて意識化するということを意味するわけではありません。