スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典関東オークス&オルデンブルク

2015-06-10 20:44:09 | 地方競馬
 芝で大きな実績を残しているアルビアーノが参戦してきた第51回関東オークス
 先行争いになりましたが,逃げたのはホレミンサイヤ。追っていったのがヴィグシュテラウス。以下,トーコーヴィーナス,アルビアーノ,ポムフィリア,スキースクール,ジェットシティまで差がなく追走。やや開いてホワイトフーガとトーセンマリオン。1周目の正面でペースが落ち,外を一気にホワイトフーガが上昇。1コーナーでは先頭に。この動きで隊列も変わり,2番手にトーコーヴィーナス,3番手にアルビアーノとなり,スキースクールとポムフィリア,そしてトーセンマリオンの順に。発走後の分だけハイペース。
 ホワイトフーガは快調に飛ばしていき,3コーナーからは後ろを離していくと,直線は独走。実に2秒3もの大差をつけて圧勝。3コーナーから追い上げようとしたアルビアーノは直線で苦しくなり,マークするように追い掛けたポムフィリアが2着。内を回って伸びたトーセンマリオンが4馬身差で3着。
 優勝したホワイトフーガは前走で牡馬相手のオープンを勝っていた馬で重賞は初勝利。例年なら1番人気に推されるレベルの馬ですが,今年は普通なら出走してこないタイプの芝の実績馬が出走していたための2番人気。こちらはダートを使われていた馬ですから,そちらが走れなければ勝って当然です。最後までラップを落としていないようにかなり強い内容でしたが,これは能力差によるもので,本来はもっと短い距離の方が向くでしょう。牝馬戦線では古馬を相手にしても戦えるレベルにはあると思えますので,今後も楽しみです。父はクロフネ。母の父はフジキセキ。祖母の従弟に2010年のNHKマイルカップを勝ったダノンシャンティ。日本はもちろん世界的に名馬が多数出ている名門牝系です。
 騎乗した大野拓弥騎手と管理している高木登調教師は関東オークス初勝利。

 『スピノザ往復書簡集Epistolae』に収録されている84通の手紙のうち,最多を占めるのがオルデンブルクHeinrich Ordenburgとの間で交わされたものです。これに関して畠中尚志は,オルデンブルクはイギリスの王立協会の秘書官の職責から,今でいう自然科学も含めたような学問的ニュースを収集する必要があり,その目的でスピノザを利用したという主旨のことを巻末の解説に記しています。目的論的にいえばこれは正しい説明かもしれませんが,両者間に多くの書簡のやり取りがあった理由として,僕が理解する最重要点は,それとは別のところです。
                         
 オルデンブルクは王立協会の秘書官になる以前から,自然科学に深い関心を抱いていました。しかし元々は神学者です。そしてキリスト教の信仰者でした。立場としていえば,ライプニッツGottfried Wilhelm LeibnizやヤコービFriedrich Heinrich Jaobiと同様に,神学的観点を保守する人物でした。ですから本当はスピノザのような,無神論者ともみなし得る哲学者と関係をもつことは,危険な行為の筈だったのです。
 ところが,これは書簡の内容を読めば一目瞭然ですが,オルデンブルクはスピノザの哲学を正確に理解できていませんでした。単刀直入にいうなら,スピノザがスピノザ主義者であるということに気付くことができなかったのです。あるいはスピノザ主義がキリスト教神学を危機に晒す哲学であると理解できなかったのです。だからオルデンブルクは平気でスピノザと書簡のやり取りができたのでしょう。それに賛同するにせよ反対するにせよ,オルデンブルクがスピノザの理解者であったなら,これほど多くの書簡は交わされなかった筈です。
 1665年12月にオルデンブルクはスピノザに手紙を送った後,音信は不通になり,次のオルデンブルクからの手紙は1675年6月に送られています。おそらく1665年の時点で,ようやくオルデンブルクはスピノザと交流することが危険であると悟ったためでしょう。もしオルデンブルクがもっと早くにそれを悟っていたなら,ふたりの間にこうも多くのやり取りはなかっただろうと僕は推測するのです。
 なお,書簡の再開は,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの仲介によるものだそうです。これがなければ再開もなかったと思います。
コメント
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