スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

漱石に見る愛のゆくえ&人間の本性

2015-03-12 19:19:31 | 歌・小説
 『構造としての語り』で展開されている,「私の子ども」の母親は先生の奥さんであるという小森陽一の主張を肯定的に評価しているのが清水忠平で,その見解は『漱石に見る愛のゆくえ』という著書の中で示されています。僕は小森の説には懐疑的であるということはすでに示しましたので,清水の本だけ簡単に紹介します。
                         
 ここでいう愛は,基本的には恋愛感情です。ただ,『こころ』で先生はお嬢さんに対する自身の感情を,宗教的信仰心に譬えていますから,そういう意味での愛も含まれると考えてください。そうした愛に関する論考が,四章にわたって展開されています。もっとも第四章は結論というべき部分で,特定の作品を中心に語られているわけではありません。
 第一章で取り上げられているのは『虞美人草』,『それから』,『門』の三作品。第二章が『坊っちゃん』,『三四郎』,『彼岸過迄』の三作品。愛を主題にして『坊っちゃん』について語られるのは不思議と感じる方がいらっしゃるかもしれませんが,第二章は「漱石文学の女性たち」というタイトルで,マドンナと清について語られるということです。第三章が『行人』,『こころ』,『道草』,『明暗』の四作品。当然ながら,小森説への肯定的見解は,『こころ』について語られる部分に示されます。ただし,清水はなぜその見解を肯定するかの理由は示していません。
 総じていいますと,僕には消化不良といった感じの著作でした。何というか,さあここから探求が深まっていくのだと思わせるような部分で論考自体が終了してしまうという部分が多かったからです。そういう意味では,漱石のコアなファンよりも,ライトなファンに向いた本であるといえるかもしれません。
 分量はそう多くありません。その多くない分量のうちに,たくさんの作品を詰め込んでしまったがために,消化不良という感覚が僕に残ったのだと思います。

 第三部諸感情の定義一の,与えられた変状によってあることをなすように決定されるということを,僕は決定されるものの受動passioと解します。この意味において,この定義Definitioが,第四部定義八と対立的であると考えるのです。人間について眼中に置くなら,人間が能動actioの状態にあるとき,人間の本性natura humanaは理性ratioないしは徳virtusです。しかし人間が受動状態にある場合にはそれは成立せず,人間の本性は欲望cupiditasになります。同じ人間の本性が異なった仕方で説明されるのはおかしいと考える方がいらっしゃるかもしれませんが,人間が現実的に存在する場合には,こうした解釈が成立するし,もっといえば,こうした解釈をする必要があると考えます。たとえば第三部定理五七は,各人の本性が異なるということを明らかに含意します。対して第四部定理三五は,各人の本性が一致し得ることを含意しています。少なくともスピノザはこれらが両立すると考えているのであり,スピノザの主張に関してはそう理解しなければならないでしょう。同時に僕は,スピノザは正しいことを主張していると考えます。
 この両立性を,スピノザは能動と受動の相違によって規定します。第四部定理三二第四部定理三三がそのことを示します。とくに第四部定理三三は,同一の人間にあっても本性は変化するということを含んでいますから,現状の考察においてはとても重要であるといえるでしょう。また,たとえば理性を人間の精神mens humanaのpotentiaとみなせるのは,実際に人間が理性的に働いている場合だけであるという考え方からも,この両立性が帰結しなければならないといえますし,それが現実的なものである以上,欲望を感じるのも現実的に存在する場合だけでしょう。
 人間の能動は,人間が十全な原因causa adaequataとなって生じるあらゆる事柄です。対して受動は,人間が部分的原因causa inadaequata,causa partialisとなって生じる事柄だといえます。したがって受動の場合にも,人間は必ず部分的原因,十全な原因の一部としての意味ある部分的原因を構成することになります。なので現実的な運動motusは,能動であれ受動であれ,運動する身体corpusが少なくとも部分的原因であると,一般的にいっていいかもしれません。ただしここでは,このことを強力に主張することはしません。
コメント
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