スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

レガシーオブストレングス&第四部定理六五

2016-10-09 19:32:26 | 血統
 先週のスプリンターズステークスを勝ったレッドファルクス。祖母が1982年にアメリカで産まれたレガシーオブストレングス。Legacy of Strengthですから力の遺産といったところでしょうか。初年度産駒をアメリカで受胎したまま輸入されましたので,繫殖生活はずっと日本で送った馬です。アリアーンと同じくファミリーナンバー9-c
                                     
 自身にとって4頭目の産駒が1992年に産まれたサイレントハピネス。1995年にオークストライアルの4歳牝馬特別とローズステークスを勝ちました。繁殖に入るとシンボリクリスエスとの間に2007年に産まれたサイレントメロディが2012年のマーチステークスを制覇。また,1988年に産んだ牝の産駒は一昨年の京都新聞杯を勝った現役のハギノハイブリッドの母になっています。
 1996年にサイレントハピネスの全妹として産まれたのがスティンガー。1998年の11月にデビューすると新馬を勝ち,月末の特別戦も連勝。さらに連闘で挑んだ阪神3歳牝馬ステークスも勝って大レース制覇。この年のJRA賞の最優秀2歳牝馬に選出されました。翌年は全姉も勝ったオークストライアルを優勝。2000年に京都牝馬特別と京王杯スプリングカップを勝つと,翌年の京王杯スプリングカップでも連覇を達成しました。
 1997年の産駒もサイレントハピネスおよびスティンガーの全妹。この馬がレッドファルクスの母になりました。
 2001年にダンスインザダークとの間に産まれた牝馬の産駒が2013年のキーンランドカップを勝ったフォーエバーマーク
 2004年にマンハッタンカフェとの間に産まれたのが2009年のオーシャンステークスを勝ったアーバニティです。
 レガシーオブストレングスの半姉にMontageという馬がいます。この馬の父のAlydarは同じ一族で,自身の5代母と父の4代母が同一という牝馬。2006年にテレビ埼玉杯を勝ったチョウサンタイガーはMontageの曾孫です。

 僕が解釈するように,哲学する自由libertas philosophandiを制限されることもシナゴーグから追放されることも,それ自体ではスピノザにとっては悪malumであったとしても,前者の方がより大なる悪で,後者はその大なる悪を回避するという意味で善bonumであったとすれば,スピノザはきっと後者の道を選択したことでしょう。つまり破門を宣告されるという小なる悪を受け入れても,思想の自由を制約されるという大なる悪を回避したことでしょう。少なくともこのときにスピノザが自分の置かれた状況を理性ratioによって判断したなら,スピノザが必然的にnecessarioそういう選択をするということは,『エチカ』の定理Propositioにも示されています。それが第四部定理六五です。
 「理性の導きに従って我々は,二つの善のうちより大なるものに,また二つの悪のうちより小なるものに就くであろう」。
 この定理は現実的には僕たちが善と悪を比較の上で認識するcognoscereということ自体によってすでに証明されているといえます。
 実際にこのときのスピノザがこの定理にあるような理性的な判断をしたのかどうかは何ともいえません。ただ,たとえそうでなかったとしても,人間の現実的本性actualis essentiaは第四部定理一九により善bonumを希求し悪を忌避するのですから,両者のほかの条件が同等とみなされる限りにおいては,やはりスピノザはシナゴーグからの離脱の方を選択しただろうと思われます。そうであるなら「シナゴーグ離脱の弁明書」というのは,自分がシナゴーグを離脱することについての弁明であったと解するのが妥当です。したがってその内容には,哲学する自由を制限しようとするシナゴーグあるいはその指導者たちへの批判が含まれていたとしてもおかしくありません。こうした想定から僕は,『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』の「オランダ旅行記Der Bericht der Stolle-Hallmanschen Reisebeschreibung」でハルマンがリューウェルツゾーン,すなわち遺稿集Opera Posthumaの編集者でもあったリューウェルツJan Rieuwertszの息子から聞いた話として伝えている,遺稿集には掲載されなかった,スピノザがユダヤ教徒を反駁し過酷に扱った大著というのが,この弁明書だった可能性もあると考えているのです。
 もちろんこうした想定は,論理的にいうなら好ましくない部分を含んでいることも僕は認めます。
コメント
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