先週金曜日、NHK熊本ローカルの「くまもとの風」では「よみがえる新日本紀行 肥後秘花 ー熊本ー」を放送した。8月にBSプレミアムで放送したようだが、昭和56年放送の「新日本紀行 肥後秘花」を最新のデジタル技術で色鮮やかによみがえらせた番組だった。
熊本では細川藩独自の武家文化として、菖蒲や椿、朝顔などの「肥後六花」が守り継がれている。その伝統を受け継ぐ人々の情熱と花づくりの奥深さが令和の時代にも息づいていることが紹介された。
40年前の本放送も多分見ていると思うが、今回あらためて気づいたのは、わが家近くの40年前の風景。懐かしさと40年の時の流れに感慨深いものがあった。
ここはその昔柳川丁(江戸期は柳川小路)と呼ばれた一帯で、関ヶ原の戦で西軍に与して敗れた柳川立花藩の家臣たちを、加藤清正が預かり、京町のこの小路に住まわせたので、以来柳川小路と称したところ。京町と寺原をつなぐ瀬戸坂に南北から坂道が合流する。合流点を瀬戸口といい、北側の坂は三年坂と呼ばれた。
▼昭和56年放送の「新日本紀行 肥後秘花」の一場面
▼現在の同じ場所
熊本では細川藩独自の武家文化として、菖蒲や椿、朝顔などの「肥後六花」が守り継がれている。その伝統を受け継ぐ人々の情熱と花づくりの奥深さが令和の時代にも息づいていることが紹介された。
40年前の本放送も多分見ていると思うが、今回あらためて気づいたのは、わが家近くの40年前の風景。懐かしさと40年の時の流れに感慨深いものがあった。
ここはその昔柳川丁(江戸期は柳川小路)と呼ばれた一帯で、関ヶ原の戦で西軍に与して敗れた柳川立花藩の家臣たちを、加藤清正が預かり、京町のこの小路に住まわせたので、以来柳川小路と称したところ。京町と寺原をつなぐ瀬戸坂に南北から坂道が合流する。合流点を瀬戸口といい、北側の坂は三年坂と呼ばれた。
▼昭和56年放送の「新日本紀行 肥後秘花」の一場面
▼現在の同じ場所
へーっ、そんなことがあったんですか!
全然詳しくないですが、負け組は落ちのびるか殺されたくらいに思っていました。
立花藩の残党はそれから清正公に仕えたのでしょうか?
柳川藩主立花邸御花には立ち寄ったことがありますし、「英雄たちの選択」でも取り上げられていたので親しみを感じます。
>懐かしさと40年の時の流れに感慨深いものがあった。
こんな映像を見ることが出来るなんてうらやましすぎます、
タイムトンネルそのものですね!
石段はそのままあるのですね!
有難うございました。
清正は宗茂の家臣団約200名を召し抱え、宗茂は再起を期して浪人となります。しかし、宗茂の能力をよく知っていた徳川家康は彼を見捨てることなく、大坂の陣などで活躍した宗茂は関ヶ原から20年後、柳川藩主へ奇跡の復活を遂げます。
清正が預かっていた家臣団もほとんどが柳川へ帰参しました。
そして柳川小路の名前だけが残ることになりました。
40年前の風景を見ますと当時の思い出が甦りますね。