津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綿考輯録に見る秀吉の九州平定(3)

2013-06-12 06:23:56 | 史料

嶋津氏は累代の国主にて、下民も其恩を慕ひ、諸士も心を一ツにし、殊に嶮節に倚て防候間、容易難攻入見へ候処、秀吉公遠慮を廻らし、本願寺顕如上人を先手に加へられ候間、人民等上人を拝して防戦をなさす、依之思ひの外に難所を越へ、五月四日秀吉公薩州の内太平寺 一ニ泰平寺 に本陳を居られ、千代川 一ニ仙台川 に舟橋をかけさせ往還の自由を能し、先手十万余鹿児嶋に迫て陳を取、殊に兵粮船数千艘着岸せしかハ、諸勢に分ち与へ、兵気益壮なる故、嶋津家防衛尽て、志を決し赦宥も事を願ハれ候、秀吉公許容有、同七日 一ニ八日 義久太平寺に来て御礼申上、本領を可被下由也、其外義弘・昌久等初 歳久ハ病気にて御前ニ不出 家老の面々各秀吉公を拝し、上下案堵の思ひをなしけると云々

    考ニ、千代川ハ鹿児嶋より北十二三里も有之、大河也、太平寺ハ千代川より北にあり、然るに一書、秀吉公千代川を渡て太平寺に御陳を居らると有
    ハ誤也、右太平寺天台宗にて古き寺也、庭に大なる石有、今俗におこうさん石といふ、是義弘来降の時、秀吉公対面有まての間、此石に腰をかけら
    れ候故と云伝る、薩州にて秘説の由也、 又豊臣鎮西御軍記ニ出たる趣ハ、五月三日 一所ニハ五月十一日とあり 千代川にてはけしき戦ひ有、薩摩は新納
    忠元と伊集院忠棟主将也、上方勢は加藤清正と福島正則大先手也、扨千代川の下京泊と云船付 薩摩の輩皆是より出船す より鹿児嶋まて行程十五里と
    有、又本願寺顕如上人ニ秀吉公より御頼之趣有之、平野遠江守・粕谷内膳其外四五人、本願寺の家老用人小姓なとに仕立、謀を含め、前年より薩
    州に入込、獅子嶋の道場に逗留して家中地下人共ニ大勢の門徒をなつけ、人の知らさる間道を知て対陳の中、上方不意に薩摩の後ロより出しかハ
    薩州大に周章、天兵の来るかと疑ひ、鋒先もなまり勇気も屈して、終ニ降参ニ決し候、此事は千代川合戦後上方勢河を越て大に陳を張、秀吉公太平
    寺に入御より数日後の事也、右間道より上方勢の攻入たる案内者の事色々吟味いたし候へとも、不知所ニはるか後ニ本願寺を信したる者共の仕業
    なるよし顕れ、是より領内きひしく一向宗を禁しける由 、又新納武蔵は戦場を去て行方しれす、島津一類降参の事もしらぬよしニて大口ノ難所に楯
    籠り、秀吉公の帰路をさへきり狼藉をなし候らへ共、武勇の英たるを感し殿下より義久に被仰、降をすゝめて納得いたし、後ニハ信服して肥後八代ま
    ても御帰路を奉送と云々、右本願寺を御頼之次第、其外実にもと聞へ候事も間々有之候へとも、其より所分り不申、好事の述作かと見たる所々多候
    間、尚又追考可仕候
     

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「水野勝成覚書」の登場人物・・熊本編

2013-06-11 12:09:04 | 熊本史談会

 6月15日は熊本史談会の例会である。今回は津々堂の担当で「水野勝成覚書」を取り上げることにした。
予習の意味で読み込みをしているが、多様な登場人物に驚かされている。
この「覚書」は全39頁に及ぶものだが、「牢人仕候時分之事」として7頁を費やし、ここでは肥後国衆一揆から天草の戦いを主として書かれている。
今回は熊本に関わるこの7頁を特に取り上げて見たいと思っている。

寛永十八年五月の日付があり、自分を始め多くの人達の名前をあげて高名や手負い・戦死などを書き込んでいるが、これは吟味に応える為だとしている。

  ■くまべ但馬        肥後国衆一揆の首謀者とされた隈部親永である。
  ■但馬(おや)こ      親永の息・隈部親泰である。城村城主。
  ■小谷又右衛門          隈府城攻にて高名       
  ■松下弥平次           同上        加藤家侍帳に同名の人有り、同一人なるか不明

  ■見た村庄左衛門    三田村庄左衛門・佐々成政取立の人
  ■安國寺          安國寺恵瓊のことである。この戦いでは毛利家の物頭として、兵粮を入れたことが記されている。
  ■橘左近          柳川藩主・立花宗茂のことである。
  ■同・弥七         宗茂の実弟・立花直次(初名・高橋統増 弥七郎) 歳のころ「廿はかり」で「残る所無御座はたらき」とある。
                  のちの三池藩初代藩主となる。(柳川藩の支藩ではない)
  ■天野源右衛門(安田作兵衛)  
                 本能寺の変で森乱丸を仕留めた人物(安田)である。羽柴美濃(秀長)に仕えたが、この時期は立花家に堪忍として仕えた。
  ■遠藤助右衛門     佐々成政家中
  ■十時(名前失念)   共に戦った同志であるが勝成は名前を忘れている。熊本城接収の折橘(立花)三左衛門に聞き合わせ、十時連貞であること
                 を知った。息・三弥にその後の消息を尋ねている。    
  ■橘三左衛門
  ■十時三弥        十時連貞の息
  
  ■いたば助之進
  ■山田庄大夫
  ■あざい喜八郎     浅井長政の男(?)とされる。夏の陣に討死したとも、京極家に客分として仕えたとも言われる。
  ■岡田将監        岡田善同のことである。
  ■原半左衛門
  ■鈴木小右衛門
  ■道家治右衛門

  ■くのり孫兵衛
  ■うへ松大せん
  ■岡田将監               前出
  ■浅井喜八郎              前出
  ■すみ作助
  ■まいの助兵衛
  ■ 息 又助
  ■野小兵衛
  ■木村(きらきら)

  ■小西摂津守
  ■小西主殿之介

  ■志き
  ■小西弥三兵衛
  ■伊地知文大夫
  ■加藤肥後守     正室(継室)清浄院は水野忠重女・徳川家康養女 
  ■伊藤忠左衛門(へいらくじ事)
  ■杉浦甚右衛門
  ■伊川蔵人
  ■阿波のなるとの助   サイト「小西家 家臣団」
  ■ 同小姓 清吉          同上
  ■山田八蔵
  ■久米兵大夫
  ■中山瀬久之丞
  ■ 弟 山瀬勘右衛門
  ■一揆大将・民部大夫
  ■山岡道阿弥(加藤肥前)  山岡景友(?)
  ■岡田将監                    前出
  ■南部無右衛門(岡田将監おばむこ)
  ■おほ木織部
  ■瀧野三位
  ■庄林隼人
  ■森本儀大夫
  ■飯田覚兵衛
  ■池田甚四郎

  ■久米兵大夫
  ■松平三蔵(加藤左介)兄弟
  ■山本左大夫
  ■はやししけりの助
  ■近藤弥之助

                                 (未完・書き込み中)
   

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綿考輯録に見る秀吉の九州平定(2)

2013-06-11 09:37:35 | 史料

岩石城陥り候ヘハ、秋月宗全・同三郎種永大に愕き、英気を失ひ、降人と成、城を渡し候、扨豊後路より向はれ候諸将も日向国へ乱入之旨追々注進有之候間、秀吉公大に悦ひ、同三日秋月か城に御陳を移され、此間之荒増禁裡へ言上被成候

        急度奉言上候
    一、嶋津一類豊後府内ニ居陳仕候条、於彼国悉可討果之旨令存、先勢黒田勘解由・蜂須賀阿波守・毛利右馬頭・吉川治部少輔・小早川左衛
       門佐・備前少将羽柴中納言を為始、人数都合十万余騎差遣候、彼表五六里迄攻詰候処ニ、去月十五日夜大雨ニ紛レ、嶋津令敗軍、日向
       国へ逃入候、追詰千余討捕候、其内武者頭多在之候、則日向へ令乱入事
    一、去月廿八日、秀吉関戸打越、豊前国小倉へ相移、翌廿九日同国馬嶽ニ令着陳、秋月為誅罰軍兵五万余騎令発向事
    一、馬廻四万余騎召列レ、去朔日午尅(刻)ニ豊前国杉原江陳替仕候処ニ、近辺岩石と申候城を熊井越中守と申者相拘、路次之禍を成、狼藉
       者候間、同朔日馬廻ニ被申付候処、羽柴細川越中守・ 同丹波少将・日野兵部少輔・松嶋侍従・前田又左衛門此輩先駈申請、即時ニ乗崩
       一人も不漏悉刎頸、手柄振之段難尽筆紙事
    一、秋月為誅伐右五万余騎秋月城を可取囲之由申付候処ニ、秋月父子髪を剃刀(ママ)、先駈之陳ニ走入降参候間、不是非身命相助城請取申
       候、左候而豊前・豊後・肥前・筑後・筑前之内敵当之者一騎も無之候事
    一、今年三日秋月城ニ相移、令逗留仕置申附、従其薩摩国江討入、嶋津一類之頭を可刎事案之内ニ候、此旨可有御披露候、恐々敬白
                                           太政大臣
           卯月三日                             秀吉 判
               菊亭左大臣殿
               歓修寺大納言殿
               中山大納言殿
                       御披露

秀吉公筑後を経て肥後に打入、熊本八代等に御逗留之内、九州の諸将追々に降参本領案堵被仰付候、嶋津一家は漸々に与力を失ひ、本国に引入て堅く守る、降参の面々薩摩入の御先を仕り候、忠興君と蒲生氏郷ハ義久の家老新納武蔵守か居城大口を攻られ候、此城堅固の要害にて用意難攻抜ミえ候と也、殊に上方の大軍粮乏く、二三日ハ諸勢難儀ニ及ひ、忠興君も一日一夜御食事不被遊事も有之候由、此折新納か方より首くゝり俵を 一ニ米俵二ツ足軽弐人ニ背負せと有、八木弐荷共壱俵ともあり 下人に持せ、小苗代の川越より矢口止させ、若党壱人差添、口上に御昇筋違にて候間、幽齋様の御子と奉存申上候、弓箭ハ兵粮を先に仕候と承及候、幽齋様御事は分而義久に御懇志ニ付乍憚進上仕候由也、忠興君ハ御床几ニ而御座候所ニ件之趣申上候、其志を感せられ被留置度思召候得共、兵粮ハ潤沢に有之候故返し申候、御心入之段ハ感心不浅由被仰遣候、聞人是を感称しけると也

                                          
                                                 新納忠元

    後秀吉公の御前に出候時忠興君御挨拶に、武蔵殿之儀内々承及候と御懇に被仰候ヘハ、忠元畏て忠興様にて御座候哉、先年小牧表御働田
    舎まて其隠無御座候と申上候、いか様たゝ者にあらすと被思召、御腰物なと被下、御懇被成候也、
    或覚書、新納武蔵ハ八代に取出の城をかまへ居候由、忠興様を御振舞申度由ニ而御膳を上ケ候、御酒出候時、武蔵盃を御所望被成候ヘハ、
    武蔵小唄をうたひ被申候由、其小唄にかごしまのやかた、こゝろよひやかた、おさかつきたもるりうきうてかたろりうたつをうたひ被申候由、
    細川丹後守殿御内室御三様と申、御幼少之時分、忠興様御側ニ而小唄を御所望被成候ヘハ、右之唄を被仰候而武蔵かうたひたる由、節々被成
    御意候由御咄を御直ニ承候由、加来佐左衛門(御三様実父)方承り被申との事、元禄六年酉ノ二月廿八日之夜物語ニ而承り申候ニ付爰に書入ると
    也、考ニ参河後風土記・太閤記等に、新納武蔵守楯籠肥後高迫城、四月七日之夜明退と有、是さへいふかしく存候に、同書其外ニも、肥後にて降
    参の諸将の内に新納武蔵守も有之ハいかゝ、もしは別人同名なるにや、漏太平記に、大口ハ菱刈か居城なり、永禄十二年嶋津家ニ降、薩摩より
    新納刑部少輔 後改武蔵守 忠元在城と有、同書義久降参、本領案堵の時、新納にも一郡宛行ハるへしと也、されハ今度和平調て、各悦ひ合る中、
    新納忠元壱人ハ嶋津家降する事、偏に己か身より成せる心地にて、又なく無念ニ思へる気色差顕れて、秀吉公の御前ニ出るといへ共、何と猿面
    等を拝せんやとて白眼にして歯を喰しはり憤りけると云々、又武家閑談に、嶋津か武将新納武蔵は肥後の堺泉と云所に居城、秀吉発向の時分、敢
    (アエテ)下らす、秀吉公へ城を渡し奉るへけれ共、夫は天下への無礼也と可申候、殿下猛勢を引卒して御馬を当城ニ寄せ給ハゝ、速に一戦して首を
    捧へし、黄泉の思ひ出此事と申きる、竜白降参の後迄も、猶軍門に降らす、彼城下は三里四里の間乗馬の通ひ不叶程の堅固にて、大軍の押入事
    難き旨秀吉公聞及ひ給ひ、且ハかれか志を感し、竜白にさとして終に城を出て降参あらしむ、誠ニ新納か真志世上賞美しけると云々、大口と泉相
    違なりや、泉は出水(イツミ)なるへし、又南海治乱記之説、新納事ハ偽説かと見へ候得共、其外之事見合ニも可成かにつき、左に出し置申候
    
    

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綿考輯録に見る秀吉の九州平定(1)

2013-06-10 07:09:21 | 史料

 豊臣秀吉による九州平定に於いては、秀吉を総大将とする肥後表陣立と、弟秀長を大将とする日向表陣立によったが、細川家は秀吉の十一番隊の内の四番隊を預かり出軍した。綿考輯録から御紹介する。ちなみに忠興は24歳である。

天正十五年丁亥三月朔日、秀吉公京を立て西征あり、忠興君も御先手にて御出勢被成候、是九州久敷闘乱のミにて、近年は嶋津義久・大伴(友)義鎮弓箭を取驕りて、自余の輩ハ自然と両家の旗本に属し乱撃止事なし、然るに大伴は先達而秀吉公に従ハれ候間、去年も為加勢、毛利・小早川・黒田・仙石・長曽我部等被差遣、猶又和順の事をも被命得共、嶋津氏承引無之故、今度大軍を被催候、先陳は去冬以来正月二月迄に追々出勢いたし、中納言秀次 一ニ秀長 以下の諸将は豊後に討向ひ、府内にさゝへたる嶋津家の一類を退け、日向国へ乱入有へしと也、秀吉公ハ肥後口より攻入らるへきとて、忠興君も其御先被成、豊前に御渡海、小倉より三里東くさミと云所に御陳を居られ候、此所にて歩行者 一ニ御小人 喧■(口偏に花=嘩)を仕出し、相手を討て在家に取籠候を各取廻候へ共、容易に内に入者なかりしに、有吉太郎助聞付、走来り飛入て斬殺し候に、今に始さる働きと忠興君御感被成候、扨同国岩石城 筑前堺一ニ岩礁 に熊井越中守久重数百騎ニ而籠り、秋月種実入道宗全に合力するを可被攻かとて、秀吉公江窺候節之御返書 
         書状之通被 聞召候、能申越候、乍去秋月表可取
         巻候間、先達城共之事不相構候、最前書立遣候条、
         可得其意候、岩石取巻候事無用ニ候、心懸之通尤
         ニ候、森壱岐守ニ申付差遣候間、如書立可陳取候
         也
            三月廿六日          秀吉 朱印
              羽柴与市郎殿へ
              明石左近殿へ
              高山太(ママ)蔵太(少)輔殿へ
              赤松左兵衛殿へ
              中川右衛門大夫殿へ
              福島左衛門大夫殿へ
依之秋月か居城筑前の小熊を可被攻催也、然に秀吉公同廿八日長州赤間関より小倉に御渡り、廿九日同国馬嶽に着陳、四月朔日には其辺杉原山に御陳替候処、彼岩石城眼下に見へ候間、一時攻にして敵の目を驚せんとて、丹波少将秀勝を大将にて忠興君・蒲生・前田・日野等ニ先馳被仰付、三万余兵にて攻かゝらる、越中堅く防き弓鉄炮きひしく打かけ、味方の手負死を致すもの数多也、秀吉公使番を以一旦に攻破るへき旨、度々御下知有、依て死傷多きをも不厭、諸将ひとしく進て、三方を取巻、わさとやまの手をあけ置、火を放て攻かけ候に、敵城戸を開き、牛馬三百疋はかり繋き合せ尾に炬火を結付て追出し、其跡より城主熊井久重鋭兵を勝て討て出候間、寄手驚て乱れ騒く所に、松井康之先に在て衆を励し、忠興君の御昇少も動かす、武頭等下知を加へ筒先を揃て牛馬を打候間、前に伏て後兵猶豫するを見て抜つれて斬てかゝり、敵五六十討取、残兵を城に追込しかハ、秀吉公より牧村兵部大輔 一ニ牧野兵部少輔 利宣を使にて、今に始さる長岡の筋違昇、松井新助かなと被仰下候、蒲生家・前田家の軍士等我先に城に乗入、当手にてハ有吉太郎助一番に本丸に乗込、火を放て焼立、城主熊井を初め残りなく討取候
    井沢撰御家伝云、日向口よりハ羽柴美濃守(秀長)を大将にて尾藤甚右衛門・宮部法印・黒田父子・大友以下打入、忠興君も日向口に御向ひ、豊
    前下毛郡犬丸に御陳を居らるゝ処、仲津郡の内馬滝に御一宿有て、翌日香春へ越せられ、秀吉公に拝謁有、忠興君と氏郷と岩碏城の案内を撿見
    有て、香春へ帰給ふと云々
    武次筆記云、翌日蒲生氏郷・忠興君岩石へ物見に御出被成候処、畠に百姓居候を被召、城之様体御尋被成、香春へ御帰、秀吉公へ岩石攻申儀
    両人江被仰付候へと御望被成候、秀吉公被仰候ハ、皆共ハ木を枯候ニ枝より枯し候、御主ハ根より御枯し被成候間、秋月へ押候へと被仰候ニ
    付、秋月の方へ御押被成候、岩石は丹波少将殿に被仰付、御乗取被成候、秀吉公両人たまし候と三齋様被仰候事此儀ニ而、秀吉公より禁中へ言
    上之御書ニハ、氏郷・忠興公も御攻被成候様被遊候御証文有之と云々
    全記云、三月廿九日秀吉公馬嶽に本陳を移し、軍鑑等を召供し高山に上り、岩石を見下して御下知有、四月朔日暁天より城を囲むと云々、是も言
    上之御書ニ相違有、然共前夜城の様体御見積り被成候事、態御書ニのせられさるか是非不分明、又九州記にハ岩石ハ秋月か端城にて、家人芥
    田悪六兵衛と云者を将として籠置、寄手外輪を破り、詰の丸に押詰たり、城兵降参とあり、
    一書、松井胃介を新介と改む、今度忠興公の先鋒を勤たる故也と云々、考ニ誤なるへし、天正十三年利休自筆ニ而松井ニおくりたる書簡にも新介
    と有之、二年以前也 

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細川興元の事・・立藩とその死(2)

2013-06-09 13:07:48 | 歴史

 慶長十九年大坂之役将軍之御馬廻として御供、十一月朔日家康公二条城之御城にて大坂之責口を被定候との内、岡山御本陣之近所ニ玄蕃殿も御陳有へきとなり、扨船手之大将九鬼長門守・向井将監・千賀・小浜等若船軍あらハ人数不足なるへきかとて、御馬廻之内軍功ある人を撰ひ、十三人被遣候ニも玄蕃殿其一人なり、翌元和元年夏御陳ニも御旗本之御先手にて段々と城ニせまり、岡山と茶臼山の間の寄手の内ニ有、五月七日城方より味方之諸将を討取 小笠原秀政父子・本多忠朝等戦死 、気ニ乗て強く働、味方しらけて見へける時も、玄蕃殿を初関東御旗本之諸将馳合せ、稠敷戦ひ敵をかけ立、其外勝敗区にして終に城兵を追散し候、玄蕃殿手ニ首十四被討取
    山本日記 編年集成・難波戦記等粗同之、尤姓名等あやまりも有之か 、酒井雅楽頭ハ手之軍勢を息安房守ニ附せらる、細川玄蕃興元ハ小身なるゆへに副将とな
    りて軍之支配をなす、土井大炊頭利勝か陣之左ニならんて備を立る、大炊か副将佐久間備前・同大膳不快思ひ、玄蕃殿御軍法を背かるゝと云、玄
    蕃聞かさるかことくす、佐久間軍使を以御軍法を背かるゝと御旗本にうつたふ、大炊此事を雅楽に告る、大炊頭のうしろに備へられよといふ、玄蕃
    云く、およそ先陳後陳とて必前後に備るにてハなし、敵に対し地之形勢ニよりてハいかようにも侍る事なり、先陳右二陳左に備る事又珍らしからす、
    敵にあふに前ニ始め後ニはしむるを申なり、土井氏の軍始さるまへにハ当手の兵共にハ一人も戦せまし、此上ハ御軍法を背たるにはあらす、今見
    給へおほしめし知給ハん、といひし詞の下より土井方の備大ニ敗す、佐久間兄弟下知をなすといへ共不叶、此時左之二陳聊動転の気色なく、能図
    を守て突て出、大将安房守 此時ハ与四郎と云 をも敵にあはせ、当陳之者数刻戦て高名す、玄蕃自身も鑓をあはせ向敵三人突落す、かゝる所に
    両御所御陳をすゝめ来ろ給ふ、玄蕃弥競進んて敵を追退たり、爰に清けなる若武者唯今高名を究たりと見へて、鮮血に身を染、首を提け田之畔に
    うつくまる、安藤帯刀馬をよせて、いかなる者そと問、細川玄蕃か手之者加藤采女と名乗る、大御所聞し召れ勇士なりと宣ふ、大樹ヘハ山岡五郎作
    是を言上すと云々
    武辺咄ニ、大坂落城之時細川玄蕃頭興元鑓を合ると申上けれハ、家康公仰にハ、鑓を合ると云事左様ニ節々有物ニあらす、此茶臼山之北に見え
    たる勝曼院之山に、佐久間不干・筒井順慶・荒木村重籠りて大坂之門跡建如上人より攻候時に、本の鑓合たりと聞及たりと被仰しとなりと云々
    子細ありや、いふかし
右戦功によつて常州谷田部 一ニ矢田部 六千三百石余御加増拝領なり 谷田部ハ筑波・河内二郡之内ニ而候へ共、御居所は筑波郡ニ而候由、且又後年地御引替ニ付而、筑波郡之内少々上り、其代りニ新治郡之内御領分ニなり、三郡ニ入交候よし 、興元主の御子玄蕃頭興昌より豊前守興隆・長門守興長・長門守興虎・玄蕃頭興晴・長門守興徳と相続、領壱万六千三百余石、代々朝散大夫なり

元和五年三月十八日、江戸にて卒去、五十四歳、法名大光院韓英雄山

                                                     (了)

 

                                    

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細川興元の事・・立藩とその死(1)

2013-06-08 06:57:12 | 歴史

 慶長六年の暮、豊前小倉から出奔した興元のその後を綿考輯録から御紹介する。(綿考輯録巻二十 p87)

慶長六年豊前御立退以後、御牢人之間ハ自安(持安とも)と名付、泉州堺之妙国寺武田左馬介入道謙斎 冨田信濃守家臣洛外狼谷ニ居住、左馬介ハ若州武田之族也 方江三年蟄居せられ、其後慶長十四年家康公之命ニよりて秀忠公被召出、下野国芳賀郡茂木ニ而壱万石被下候、忠興君も家康公仰ニ随ハれ御間よく御成被成候
    考ニ武徳大成、慶長十五年壱万石の領邑を賜ふ、同書ニ忠興二男と有、
    家忠日記ニハ十四年上州之内にて壱万石被下候と有
    編年集成、慶長十四年細川玄蕃頭興元無禄故、当時堪忍分兄忠興進退之、是人有壮勇名、至駿武拝謁両公、於野州芳賀郡茂木庄給食禄、後年
    依大坂夏陳戦功、於常州筑波・河内両郡授壱万石、居矢田部邑云々
    関東軍記大成ニハ、慶長五年岐阜関原戦功ニよつて諸将と一同に常州茂木を拝領と云々
    右説々之違先後之本文にて考知へし
    寛政十二年七月、当長門守興徳主之年寄秋田介大夫ニ興元主御浪人之内御住所等之儀、但忠興君と御和睦之年月等問合候処、慶長六年秋豊
    前御退去筑前ニ暫御滞、同冬高野山江御登山之志にて、堺妙国寺江武田玄碩 初ハ武田右馬允と号、江州浅井家之臣なり、浪士と成、洛陽ニ居すと旧記ニ相見候、
     右右馬允ハ本行武田左馬介之子息にても候哉、分別ならす
罷在候ニ付御案内被仰遣候処、御迎申玄碩所江御逗留、翌年春高野山江御登山無量光院江五ヶ
    月程御在寺、同年夏玄碩御迎ニ参下山、堺ニ三ヶ年程御在居之由、其後光寿院様(幽齋室)京都小川御屋敷御譲請ニ成 小川屋敷いつれの辺と申儀、
     御譲請何比と申儀もわかり不申候、尤興元主御出勤後は右之御屋敷玄碩ニ預被置、興徳主御代迄御所持之所、玄碩子武田玉翁江被下候由、尤堺ニ御住居中も小川御屋形ニ御越御逗留
     も被成候由申伝候
、御住居之由申伝候、又忠興君と御間能御成候儀は、慶長十三年春忠興君・興元主御一同に家康公御前江被為召、御直之上意ニ
    兄弟不和不可然候、自今和睦可被仕との旨ニより御請被仰上候由申伝、公儀江御出勤ハ翌慶長十四年にて候哉との儀等申来候、関原備考ニハ、
    慶長十五年細川玄蕃頭興元ニ壱万石給ふと有、小川御屋敷の事も尚再考可仕なり

 

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細川興元の事・・出奔

2013-06-07 13:39:24 | 歴史

 細川家の豊前入国から一年を経た慶長六年十二月中旬、幽齋公が初めて中津に下られた。所々の御城代も中津に参集して御祝いを申し上げた。
そんな中玄蕃(興元)は所労を理由に養嗣子与五郎(興秋-忠興二男)を御名代として出席させた。忠興が不審に思う中、翌日小倉より「玄蕃殿御立退との飛脚来り、相残ル士より書置相添注進仕候」という状況になった。忠興の怒りは相当な物であったろうと思われるが、詳らかな記事は見受けられない。
綿考輯録は、忠興君の御意として「丹後ニてハ与十郎(孝行)・松井よりも少身なるを、相身代にして弐万五千石遣候ニ、無理なる不足と被仰候」とある。

忠興の豊前入り後、「与五郎殿ハ直ニ中津へ被留置、小倉城改の奉行として村上八郎左衛門・飯河豊前を早速被遣候、玄蕃殿ハ小倉御在城ニて松井と共ニ両家老職なりしに、流石に陪臣と成事をいきとほり、黒田甲斐守長政と密に謀し合せ、長政より小倉の大橋に迎舟を越され、大坂に遁れ被行候由」とある。(綿考輯録 巻十七 p416)

石垣原の戦いに於いては共に戦場で苦労を共にした、細川家・黒田家であったが、黒田氏の筑前移封にあたっては旧領豊前の米を前納の形で持ち去り、このことをきっかけとして両家の仲が悪くなり、其のわだかまりが解けたのは重賢公の時代に至るという。
また、興元出奔に際し、黒田長政の助けが在ったことが忠興の心証を悪くしている。

忠興と興元の和解は、慶長十三年春「忠興君・興元主御一同に家康公御前被為召、御直之上意ニ兄弟不和不可然候、自今和睦可被仕との旨ニより御請被仰上候由」との申伝であるという。(綿考輯録巻二十 p87) 

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十時三弥という人

2013-06-06 12:57:23 | 徒然

 直木賞作家・白石一郎の著作に「十時半睡事件帳」という以下のようなシリーズ物があった。    

  • 庖丁ざむらい 十時半睡事件帖 青樹社 1982 のち講談社文庫 
  • 観音妖女 十時半睡事件帖 青樹社 1985 のち講談社文庫 
  • 刀 十時半睡事件帖 青樹社 1988 のち講談社文庫 
  • 犬を飼う武士 十時半睡事件帖 講談社 1991 のち文庫 
  • 出世長屋 十時半睡事件帖 講談社 1993 のち文庫  
  • おんな舟 十時半睡事件帖 講談社 1997 のち文庫   
  • 東海道をゆく 十時半睡事件帖 講談社 2002 のち文庫  

新国劇の嶋田正吾の主演で、1994年NHK「十時半睡事件帖」をドラマ化したのだが、当時島田は88歳9か月で日本のテレビドラマ主演俳優の最高齢記録であったという。
主人公の名前が十時であり、九州出身の白石らしく柳川立花家の十時氏から引用したものであろう。年齢を感じさせない島田正吾のひょうひょうとした演技に見入ったものであった。先にも触れたが私は「福岡県史・近世史料編 柳川藩初期・下」を手に入れて親しんでいるが、ここに20ページ弱の十時家に関する文書が見え、大変興味深い。

肥後国衆一揆に際しても柳川立花家は出陣している。「水野勝成覚書」によると、勝成は立花家の某と共に戦っているがその人物の名前を失念してしまった。肥後の加藤忠廣が没落後、勝成は熊本城受取の一員として熊本に入った。その折立花家の家臣・橘(立花)三左衛門に出会い、肥後国衆一揆で共に戦った人について、「名前を失念した」旨を伝えて訊ねると、十時氏であることが判明した。そのご十時氏の息・三弥に逢い父親のその後を尋ねたりしている。

綿考輯録に於いてはガラシャ夫人の生害の折、屋敷から遁走した稲富の逸話として語られる中に、十時三弥の名前を見出すことが出来る。
      高麗御陳中ニ諸大将狩し給ふことあり、其時虎出たりしを各是を射留んとせしに、稲富伊賀と立花家十時三弥かまえをさして馳通る、
     両人是を鉄炮にて打候ニ、稲富ははつれ十時か玉中りける、跡にて其間数を計り見るに稲富は近く十時ハ遠し、其上稲富ハ鉄炮の名
     手、十時ハしろうとなり、今度の稲冨の形情によつて、其時も臆したる故にはつれたる成へしと人各評しけると云々
勝成がであった「名前を失念した」人ではなかろうか。 

島原の乱に於いて立花家家老十時三弥と細川家家臣とが、口論喧嘩の末果し合いになるところを、松井家家臣宇野与三左衛門治久が仲裁に入り事なきを得たことなどもあった。三弥はこの戦において死去したととも言われるが(?)、「福岡県史・近世史料編 柳川藩初期・下」によると、三弥という名は見えず十時主馬・十時吉兵衛の名があげられている。勝成も島原の乱には出陣しており、三弥と旧交を温めたかもしれない。

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「隈部館」の山つつじ

2013-06-05 19:16:35 | 熊本

肥後国衆一揆で佐々成政に抵抗した菊池隈府城主隈部親永が以前に居城としていたのが、山鹿市菊鹿町にある「隈部館」である。 

     http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=174155

     http://kikuka.jp/pub/subin3/comig5.html

     http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1327561979535/index.html

今日の熊本日々新聞は、その「隈部館」のやまつつじが見ごろであると報じている。
     http://kumanichi.com/osusume/toretate/kiji/20130605001.shtml

六月の史談会に於いては、その隈部親永に触れることも有り、この際でかけて見ようかと思っている。 

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石垣原の戦い・残照 「吉弘嘉兵衛」

2013-06-04 06:17:21 | 歴史

                  嘉兵衛
    吉弘鑑理---+---鎮信---統幸---+---政宣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・柳川立花藩・吉弘家
           |             |
           |             +---政久・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・肥後細川藩・吉弘家
           |   立花
           |  道雪----千代姫
           |         ∥        
           |        宗茂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・柳川立花藩主家
           |  高橋     ↑
           +---鎮種----統虎
           |
           +----●     
               ∥       
   大友宗麟---+---義統---+---能乗 (旗本・大友家)
          |       |
          |       +---松野右京・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・肥後細川藩・松野孫三郎家
          |
          +---利根川道孝---織部---+---亀右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  同上   松野一葉家
          |                 |
          |                 +---善右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  同上   松野亀治家
          |
          +---松野半斎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  同上   松野八郎家 

 
 こうして吉弘嘉兵衛統幸の類族を略系図で現してみると、嘉兵衛にとって大友義統は叔母聟という大変近い遠戚であることが判る。
大友義統が豊臣秀吉から蟄居処分をうけたさい、嘉兵衛は柳川藩主である従兄弟の立花宗茂に仕えている。
石田三成によって蟄居処分を解かれ、旧領地を奪回すべく義統は豊後に帰り戦う決意をする一方、嘉兵衛は義統に対し翻意するよう諫している。
しかしながら義統の翻る事のない決意に、嘉兵衛は共に戦う事を決意する。その結果は先に記したとおりである。

           吉弘嘉兵衛統幸について  http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/bs01009.pdf?file_id=60
           吉弘神社   http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/ooita/beppusi/yoshihiro/yoshihiro.html
           石垣原合戦の実像をさぐる http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/ooita/beppusi/yoshihiro/yoshihiro.html  

嘉兵衛の死後、嫡男・政宣は柳川立花家に仕官する。二男・政久は父がかって戦った細川家に仕官することに成る。
父祖の地に吉弘神社を建立したのはこの政久である。今もって一族が集まり先祖祭りが行われていると聞く。       

大友義統の兄弟や二男の流れなど四家が後に細川家に仕官するなどしている。 

 

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お安く読む・平凡社新書「犬の伊勢参り」

2013-06-03 19:21:12 | 熊本史談会
    犬の伊勢参り (平凡社新書)
 
        平凡社

 

内容紹介

明和八年四月、犬が突如、単独で伊勢参りを始めた。
以来、約百年にわたって、伊勢参りする犬の目撃談が数多く残されている。
犬はなぜ伊勢参りを始めたのか。
どのようにしてお参りし、国元へ帰ったのか? そしてなぜ明治になって、伊勢にむかうことをやめたのか?
事実は小説より奇なり! ヒトとイヌの不思議な物語の謎を探る。
 
読むべし・・・・・・・・・
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石垣原の戦い・残照 「富来城」

2013-06-03 08:38:33 | 歴史

 綿考輯録においては「冨来」城と記されているが、「富来=とみく」城が本当であろう。

瀬戸内の伊予灘に中津から別府に至る途中にこぶのように飛び出た国東半島の東の端に位置する城である。富来氏による築城は古く弘長元(1263)年だとされる。富来氏は長きにわたり大友氏に忠節を貫いたが、大友氏の没落に運命を共にした。その後は豊臣秀吉により、垣見氏が入城した。
黒田如水の攻撃を受け、城主垣見和泉守家純の留守を守り十日間よく守り通したが、家純が関ヶ原戦で討死した旨の報に接し、遂に開城した。
黒田氏の支配するところとなったが、黒田氏の筑前移封後は新たに豊前の国主となった細川家の支配下となった。

細川家は、この城が「要害堅固之地なる故、玄旨君(細川幽齋)之御居城に可然かと被仰上候へ共、都遠く候而御望不被成候」とのことで、城は三百四十年の歴史を閉じて割城の運命となった。現在では本丸の一部である外廊物見と空堀跡がわずかに残るのみだという。周辺には、空堀・鉄炮町・溝口・本丸・三の丸・城屋敷・隅櫓などの古名が残っている。

実は我が家のすぐ近所に垣見氏の住まいが在る。富来城の開城後一族は帰農したとされるが、その末につながる御宅ではないかと思っているのだが、御話をお聞きするに至っていない。

 

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くまモンのお守り

2013-06-02 18:17:08 | 熊本

                                                                

                                  第八師団北熊本駐屯地の売店にある迷彩服を着た「くまモン」
                                  ちょっとしたレア物です・・・・・
 

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江戸時代の江津湖風景・・?

2013-06-01 17:30:13 | 熊本

 熊本県立図書館のサイトに併設して、近代文学館の「熊本近代文学館報」がある。その第27号(昭和24年3月31日)を除いてみたら、平成23年度に購入した収蔵品のリストがあった。その中に「江津湖描帳」というものがあった。松田蘇雪・近藤樵仙・桐原一峯・内海香州らによる水墨画で13点が納められているという。かっては河尻からの重要な水運の要路であった江津湖がどのように描かれているのか、大変興味深い。
ぜひ拝見したいものだと思っている。 
                   https://www.library.pref.kumamoto.jp/kindai/kanpou72.pdf 

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気が付いていなかった佐方吉右衛門か事

2013-06-01 09:09:24 | 熊本

 綿考輯録から、細川家の豊前入国直後の事を眺めていたら、佐方吉右衛門に関わる記述が目に入ってきた。綿考輯録は随分読み込んできたつもりだが、今迄気が付いていないものである。佐方吉右衛門は幽齋公の田邊城籠城に入城して名を成している。歌道を通しての親交があった。

斯く言う記述とは次のようなものである。

      佐方吉右衛門ハ前廉、毛利壱岐守へ 小倉之城主 奉公、黒田氏紀伊か持之小城御攻候とて、毛利は加勢頼ニこされ、其時吉右衛門も加勢の人数ニ加
  り来高名も仕候由、入道之後三齋様御咄之伽ニ而候間、紀伊谷ニて之様体御物語之時、此節之案内者申上候通相違無御座段申上候
      考ニ、紀伊を紀井又城井とも有、太平記に出る紀伊常陸守か子孫之由、後ニハ和睦ニ及ひ、黒田氏たはかりて殺され候と也

これは、豊前入国後間もない時期に忠興が、「先年黒田長政人数四千はかりにて豊前之国士紀伊か所ニ働、散々後れをそられ候・・・其場所を御覧」になったという記述に関わってのことである。 

 

佐方家のことについて、ご子孫の元・郵政事務次官を勤められた佐方信博氏は、昭和61年「つづら文から」という72頁に及ぶ自家版の本を出されている。かって自家版の本ばかりを集め、これを有料で貸し付けている私設図書館?があって、そのサイトからこの本を見つけ出して借り受けた(一週間300円)ことがあった。
お手元にある資料なども駆使されて中身の濃い「我が家の歴史」書となっており、綿考輯録からの引用も多々あったが、上記の記述についてはお気づきになっていなかったのか引用されていない。

毛利壱岐守とは毛利勝信のことであるが、この人も肥後の国衆一揆の平定に関わったとされている。その後小倉六万国の城主となっている。
黒田氏の紀伊氏攻めは天正十六年のことである、毛利壱岐守の許で功名した佐方吉右衛門は先述の通、慶長五年の幽齋公の田邊城籠城に於いて行動を共にしているから、吉右衛門はこの戦後小倉を離れたと考えられる。
    

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