嶋津氏は累代の国主にて、下民も其恩を慕ひ、諸士も心を一ツにし、殊に嶮節に倚て防候間、容易難攻入見へ候処、秀吉公遠慮を廻らし、本願寺顕如上人を先手に加へられ候間、人民等上人を拝して防戦をなさす、依之思ひの外に難所を越へ、五月四日秀吉公薩州の内太平寺 一ニ泰平寺 に本陳を居られ、千代川 一ニ仙台川 に舟橋をかけさせ往還の自由を能し、先手十万余鹿児嶋に迫て陳を取、殊に兵粮船数千艘着岸せしかハ、諸勢に分ち与へ、兵気益壮なる故、嶋津家防衛尽て、志を決し赦宥も事を願ハれ候、秀吉公許容有、同七日 一ニ八日 義久太平寺に来て御礼申上、本領を可被下由也、其外義弘・昌久等初 歳久ハ病気にて御前ニ不出 家老の面々各秀吉公を拝し、上下案堵の思ひをなしけると云々
考ニ、千代川ハ鹿児嶋より北十二三里も有之、大河也、太平寺ハ千代川より北にあり、然るに一書、秀吉公千代川を渡て太平寺に御陳を居らると有
ハ誤也、右太平寺天台宗にて古き寺也、庭に大なる石有、今俗におこうさん石といふ、是義弘来降の時、秀吉公対面有まての間、此石に腰をかけら
れ候故と云伝る、薩州にて秘説の由也、 又豊臣鎮西御軍記ニ出たる趣ハ、五月三日 一所ニハ五月十一日とあり 千代川にてはけしき戦ひ有、薩摩は新納
忠元と伊集院忠棟主将也、上方勢は加藤清正と福島正則大先手也、扨千代川の下京泊と云船付 薩摩の輩皆是より出船す より鹿児嶋まて行程十五里と
有、又本願寺顕如上人ニ秀吉公より御頼之趣有之、平野遠江守・粕谷内膳其外四五人、本願寺の家老用人小姓なとに仕立、謀を含め、前年より薩
州に入込、獅子嶋の道場に逗留して家中地下人共ニ大勢の門徒をなつけ、人の知らさる間道を知て対陳の中、上方不意に薩摩の後ロより出しかハ
薩州大に周章、天兵の来るかと疑ひ、鋒先もなまり勇気も屈して、終ニ降参ニ決し候、此事は千代川合戦後上方勢河を越て大に陳を張、秀吉公太平
寺に入御より数日後の事也、右間道より上方勢の攻入たる案内者の事色々吟味いたし候へとも、不知所ニはるか後ニ本願寺を信したる者共の仕業
なるよし顕れ、是より領内きひしく一向宗を禁しける由 、又新納武蔵は戦場を去て行方しれす、島津一類降参の事もしらぬよしニて大口ノ難所に楯
籠り、秀吉公の帰路をさへきり狼藉をなし候らへ共、武勇の英たるを感し殿下より義久に被仰、降をすゝめて納得いたし、後ニハ信服して肥後八代ま
ても御帰路を奉送と云々、右本願寺を御頼之次第、其外実にもと聞へ候事も間々有之候へとも、其より所分り不申、好事の述作かと見たる所々多候
間、尚又追考可仕候