津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島崎騒動

2007-10-06 19:45:34 | 歴史
 幕末期熊本出身の佐々布篁石という画家がいた。特に熊本出身と書いたのは、彼があることがきっかけで郷里を離れ他国で死去したことによる。天保八年八月伊藤右之助・大塚仙之助・横山清十郎・堀内彦右衛門の四名が死刑に処せられた事件がある。事件の詳細は伝えられていないが、死刑とは穏やかではない。「島崎騒動一件」という文書があるが処刑の事実のみが書かれている。個人別の調書があるらしいが、これによると四人は時習館訓導の河部仙吾から厳しい指導を受け、叱責を被った事に対し徒党を組んで殺害に及ぼうとし捕まったものらしい。佐々布篁石も何らかの係わりが有って、終身仕官が叶わなかった。十九歳の時である。そして明治十一年信州の伊那で亡くなった。一部では松井佐渡暗殺を企てたものだとする説があるらしいが、風聞に過ぎないようだ。
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そろそろ〆か

2007-10-06 11:35:02 | 歴史
 「先主を考える」が思いがけず21回にも及んでしまった。各お宅の先祖附を詳細に検討すれば、新しい情報が出てくるのは間違いないが、2,000家ほどを総てチェックするのは不可能で、そろそろ〆にしようと思っている。最期の難関が「若狭衆」と「肥後加藤家」である。夫々人数が多いのでどうしようかと思案中である。先祖附の抜粋を集めているが、総てではないので不足分をコピーする作業から始めなければならない。ちょっと時間を頂戴しなければ成らない。
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「波」という本

2007-10-05 20:24:32 | 書籍・読書
 芸術新潮が送られてきた。「細川家美と戦いの700年」なかなかGOODではないか。発行元から定価+210円で間違いなく送られてくるから、本屋さんまで出かけるより良いかもしれない。そして嬉しい事に「おまけ」があった。「波」という冊子が同封されていたが、中身が気に入った。連載物やらエッセイ、新刊書の紹介やら盛り沢山の145ページ、おまけに郵送してもらって一年で購読料1,000円だそうな。早速同封はがきで申し込みをした。タイミングがよかったのは、私の好きな秋山駿氏の「忠臣蔵」が始まったことだ。どんな展開になるのか大変楽しみ。
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近世紀行文集成から -2 「佐藤信淵九州紀行」

2007-10-05 17:48:30 | 書籍・読書
 「佐藤信淵九州紀行」の本文を読んだ。なかなか面白い。本文読了後詳しく著者の人となりを知ろうと、編者板坂耀子氏の解説文を読んで唖然とした。どうも佐藤氏なる人は実際旅をしたわけではなく、幕末の地理家・古川古松軒の「西遊雑記」を手本にダイジェスト版を造ったものらしい。昭和17年森銑三氏が指摘されたという。しかし大変巧みにダイジェストされており、この文章を読むことにより、逆に古松軒の「西遊雑記」をよく理解する事ができると解説される。

 疲れるなー、解説文を先に読むべきだった。コメントは「西遊雑記」を読んでからとしよう。(何時になるか分かりません・・・)
 

 
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近世紀行文集成から -1 「旅の恥かきすての記」

2007-10-05 13:25:24 | 書籍・読書
 旅の恥かきすての日記・・著者-日柳燕石(勤皇志士)
著者は香川県琴平出身、弘化元年(1844)友人と共に九州を旅した。熊本の部分を抜粋する。
○ 四月二十日、瀬高(福岡県瀬高町)から細い曲がりくねった道に難渋しながら熊本入り、道を尋ねる農夫の「ばってん」言葉に悩まされている。この国は「古より武術をはげむ風俗にて、侍の衣服も袖みぢかふして臂(ひじ)にいたり、裾はからげたる如く脛をあらはす。その古風なる事、土佐画にかける人物の如し」と風俗描写が面白い。
○ 二十一日、稲佐(現・玉名郡玉東町稲佐)・植木(現・鹿本郡植木町)をすぎ未の刻城下近くで、お城のしゃちほこが夕日に輝き綺麗な事に感激しながらも、水練家が瓢箪をうきたすき(浮き袋)に使っているというような話に喜んでいる。
○ 二十二日、「清正公の廟」に出かけ、参拝の老若のお題目が絶えることがないと記している。宿で「色赤くして油のごとし」酒(赤酒)を飲んで一杯で頭痛に陥った。(現在赤酒はお正月のお屠蘇用の他は飲用として使われることは殆どなく、地元熊本ではミリンに替わる料理用として使われている)
○ 二十三日、蔚山町や高麗門を見物して、熊本城廓内に入りその威容に感嘆するが、門番の侍の居丈高を狂歌に認めている。申ノ刻高橋(五ヶ町の一つ・現熊本史高橋町)に至り舟を借りて島原に向かった。

 僅か4日ほどの熊本の旅であるが、随所に今では覗えぬ風俗習慣、城下の賑わいなどを知る事ができる。
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先主を考える-21 毛利家

2007-10-05 12:17:07 | 歴史
 細川家家臣仁保氏はその家紋(丸に三つ引両)が示すように、相模の三浦の一族である。祖・右衛門大夫が毛利家に在った。その子太兵衛は彦山座主忠宥に養育され、元和二年忠興の召出す処となった。何故彦山に入ったのかは良く分からない。

 三齋没後殉死した久野与右衛門の介錯を勤めた磯部長五郎と、弟庄左衛門(後・眞藤)は、父親と共に毛利領下松に住まいしていたが、三齋公江戸上下の折り兄弟共に召し出され豊前に来た。両人とも児小姓を務めた。先祖附によると槙嶋云庵・清田石見が動いた事が分かる。祖父磯部越前守は三尾城主、三兄弟の末弟である父・市左衛門は500石を頂戴していたが牢人した。

 両家とも毛利家が大阪の陣後、大幅にその領地を失った為の細川仕官であろう。
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先主を考える-20 小早川隆景

2007-10-05 11:46:24 | 歴史
 「先主を考える-11」で小早川秀秋を書いたが、今回は親父殿小早川隆景である。小早川水軍の将と称えられたのが浦兵部少輔宗勝、実質の毛利水軍の将である。その子乃美主水が細川家に仕え、大阪の陣では首二つ、生け捕り一人という大活躍をして、忠興の賞賛を受けた。1,500石家老米田是政の女婿である。中津に於いては忠興に近侍した。
 我が家の縁戚に浦家があるが、毛利家浦氏である。亡父の従兄妹の嫁ぎ先である。
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先主を考える-19 豊臣秀頼

2007-10-04 22:01:58 | 歴史
 秀頼の家臣に竹田永翁という人がいた。佐久間勝之に討たれたとか、大阪城内で自刃したとかいろいろ説があるようだが、先に紹介した田中意徳の祖母お菊が書き伝えた「阿菊物語」に、その竹田永翁の動向が伺える。自刃が本当だろう。さてこの永翁、安芸武田氏の流れである。父親は武田梅松軒、母親は沼田光長女である。松井康之室も光長女、故に梅松軒と康之は合壻である。秀次事件で細川忠興の身に危険が及んだ時、永翁の配慮で情報を得危険を回避した事があった。そのような関係で、大阪城落城後竹田家永翁の長兄・定勝が松井家に、末弟半左衛門が細川家に仕官した。
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小人閑居為不善

2007-10-04 14:46:14 | 徒然
 先日図書館に出かけた折、エントランス前木立の広場で女性から声を掛けられた。「■■さんでいらっしゃいますか」お見かけしない顔である。「はい」と返事をすると、「多分■■さんではないかと主人が言いまして」と近くのベンチを指差される。そのベンチに腰を下ろしている男性は向こうから手招きしている。「Tだよ」と声を掛けてきた。そうだTだと気づいたが、その面やつれに驚いてしまった。挨拶を交わす間もなく「癌だ、もう後がない」と話し出した。公務員になり定年後ぶらぶらしていたという。出世を望んだが思い通りに行かなかったと首を振る。どうもライバルに水を明けられた事が彼の自尊心を傷つけたらしい。「それでぶらぶらしていたらこの様だ、小人閑居して不善を為すというやつだな」と自嘲気味に笑う。名刺が欲しいというので手渡し、10分余り話し込んで分かれた。
 昨日のことメールが入った。「良くやるなーお前・・」とあり「俺もブログでも始めようかと思っている」と有った。「やれやれ、閑居どころの話ではなくなるぞ」と返事をした。
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旧主を考える-18 京極氏→立花氏 (肝煎-2)

2007-10-04 08:53:54 | 歴史
 細川家家臣寺田源右衛門(青地久右衛門)は、京極丹後守臣→立花家をへて、旗本・能勢小十郎肝煎にて正保2年(1645)細川家に仕えた。祖母加賀はガラシャ夫人付老女を務めた。
 京極丹後とは高知のことであろうか。細川家が豊前に移ったあとの丹後国宮津123,000石領主となり田邊城に入った。寺田氏(2,000石)が、京極家を離れたのが何時の頃の事か分からないが、丹後宮津の京極家は後断絶する。
 立花家は九州立花城主(柳川)であったが、関が原の陣で西軍についたため所領を没収され、大阪の陣では東軍につきその軍功により、九州柳川の田中吉政家没落に伴い旧領柳川に帰り明治にいたる。所領没収から20年を経過していた。所領没収の際には、肥後加藤氏がその家臣を預かり、熊本城下にはその住居地が柳川丁という名を残している。立花宗茂夫人闇千代も清正の庇護を受け、肥後領内で生涯を過ごした。又宗茂の弟の三池藩立花家もあり、寺田氏(200石)の立花家仕官も判然としない。
 細川家仕官への肝煎り役を務めた能勢氏について、先祖附は「旗本」と記している。摂津能勢に陣屋を構えた能勢氏のことであろう。
 それぞれ、どういう経緯があってのことか窺い知る事は出来ないが、大変興味深い就職活動である。
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某家先祖附の情報(肝煎-1)

2007-10-03 09:11:04 | 歴史
 細川家家臣N家の祖・安右衛門は、加藤主計頭(清正)に天正十七年、芦北郡佐敷に於いて新知4,600石で召抱えられている。高麗陳(陣)に於いて働き「赤熊之棒之立物」を頂戴したり「南無妙法連花経(ママ)」の昇を託されたりしている。慶長八年には矢部庄の内1,022石余の加増を受けた。その時分の与力の名前が列記されている。

    五百石 与力頭 長島掃部
    三百五十石   嶋沢市右衛門
     同      中小路三右衛門
    二百五十石   加賀山次郎作
    百五十石    早水正左衛門
     同      原 源右衛門
    百弐拾石    岡 兵左衛門
    百五十石    ■藤三五兵衛
    百石      八木庄左衛門
     同      小野田久左衛門
    二百五十石   横田勘左衛門
    三百石 豊前領■ 長尾又吉郎
    三百五十石   田邊又助  以上十三人
 先祖附にこの様な情報が記載されるのは大変珍しい・

 さてこのN氏、加藤家(寛永九年)改易後牢人し、寛永十年堀丹後守・同式部少輔の肝煎りで細川家に五百石で召し出された。その堀氏、後の椎谷藩の藩祖・直之、直景であろうと推測しているが、どういう係わりがあったのだろうか。
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高橋一閑なる人

2007-10-02 15:39:56 | 歴史
 細川忠利は、文禄三年(1594)から慶長三年(1598)まで、愛宕山福寿院に入り学問に励んだ。その時学友として側に在ったのが田中以徳である(細川家家臣ではない) ある時忠利は細川家側近を召し、出家すべく内意あったが、意徳が再三お止めしたという。慶長五年(1600)正月、忠利(15歳)は証人として江戸へ下っている。豊前時代に至り突然の召しだしが有り、知行300石細川家家臣となった。寛永十八年忠利死去(56歳)にあたり殉死、63歳であった。跡式は弟長野一閑の嫡子・甚左衛門である。

 過日「転切支丹の系図」を手に入れた。ここに「肥後国飽田郡熊本城下浪人転切支丹永野一閑」の物があった。何気なく眺めていたのだがどこかで見た名前だ。系図をよく見ると「田中」という氏が並んでいる。間違いない、田中意徳に関係あると直感した。田中氏の「侍帳」を見ると間違いない意徳の弟・一閑を確認、又一つ成果を加える事が出来た。
長野(永野)一閑の経歴は分からない。しかし転切支丹として記録されており、其の事を以って浪人したのだろうか。
 ちなみに田中意徳・永野一閑の祖母菊が、大阪城最期の模様を伝える「阿菊物語」の著者である。 www.ikedakai.com/text/okiku.html
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それぞれの熊本

2007-10-02 08:47:06 | 熊本
■待ちに待った「島田美術館」が再オープン。都市計画道路の為に、美術館敷地が1/4ほどカットされた事に伴い、2年4ヶ月の間閉館して改修工事が行われてきたもの。新たなたたずまいが、又人気を博すことになるだろう。同館サイトは、こちらは再オープンとは行っていないので、ちょっとご紹介。「近世肥後の文武展」が来年2月24日まで。

■細川護煕氏の現在の肩書きは「陶芸家」ご長男護光さん(35)も「陶芸家」。現在阿蘇郡南阿蘇村河陽のアートサロン「古今亭」で「細川護光陶芸展」が開かれている。同村に昨年十一月窯を開いて初めての個展。14日まで。秋の阿蘇は最高ですよ、お遊びの傍らご覧になってみてください。

■阿蘇郡南小国村の「黒川温泉」は、湯布院とならぶ「全国区」有名温泉に成長したが、今回「黒川温泉の風景づくり」が、日本産業デザイン振興会の「グッドデザイン特別賞」を受賞、またまた名声を高める快挙。今からの秋の紅葉時分はさぞ賑う事でしょう。どうぞお出でください。(もっとも予約が一杯で宿泊は無理だと想いますけど・・・)

 57日(?)続いた真夏日も途切れて、熊本市内はようやく涼しくなってきましたが、阿蘇方面はこれから最高の行楽シーズンです。「遊びにお出でまっせ」
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売り切れぬ内に・・

2007-10-01 16:32:49 | 書籍・読書
 芸術新潮10月号は「細川家・美と戦いの700年」
私は本屋さんまで出かけるのが面倒で、直接新潮社に注文しました。皆様も売り切れぬうちにどうぞお買い求め下さい。(私は新潮社とは、何の係わりもありませんけど・・)
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丹後田邊御籠城記(宮村出雲覚書)

2007-10-01 08:04:57 | 歴史
 つい最近熊本県立図書館に入った贈本らしいが、宮村出雲覚書の読み下し文を発見コピーを取る。隣に原本であろう写しがあったがこれはパス。読み合わせてみると、上妻文庫の物とは少々異なっている。原本の写しもコピーしておくべきだったと少々悔やむ。文政十一年に写された物だというが・・・(著作権の関係で半分しかコピーできず、少し時間を置かなければ成らない・残念)
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