毎日のように古文に触れているが、つくづく日本の漢字に不思議さに圧倒されている。
例えば変体かななどは、今でも苦労させられているが、これが割と近い時期まで当たり前に使われてきている。
たとえば「者」を「~は」と読ませることを考えると、古文を読むにあたっては「もの」と読むか「~は」とよむかは文脈で簡単に判断できるが、白文の漢字文を日本語読みにするために先人の苦労はいかばかりであったろうかと思うのである。
日本の近代化に伴い、字体が繁体字から現在の形に変えられたり、変体かなをなくしたりして現在に至っているが、もう候文も身近なものではなくなってしまった。
つまるところ、「口語体」「文語体」といった言葉は存在するが、その実態は失われてしまった。
私は山本夏彦氏著の「完本 文語文」を大いなる共感を以て愛読書としているが、文語体による文章の格調の高さは、どんな名文家の手によっても口語体では絶対かなわない。
私の所蔵するこの本は「帯」をなくしてしまったが、その帯には「祖国とは国語である」とあった。
漢字を国語としたベトナムや中国(台湾)、韓国・朝鮮などでも、ベトナムやハングルに変えた韓国朝鮮は漢字そのものをなくしてしまった。中国は識字率をあげようとして「簡体字」を作り上げたが、これはなんとも書道にはなじまないように思える。台湾は「繁体字」を残しているらしい。
難行苦行で古文書解読にチャレンジしながらも、それでもいろんな意味で漢字という文字は大変面白い。
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