あるきメデス

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さいたま市・見沼通船堀の閘門開閉実演

2006-08-27 23:49:06 | Weblog
 さいたま市の東部に残る広大な緑地の縁を、「見沼代用水」(み
ぬまだいようすい)という人工の農業用水路が2本流れています。

 江戸中期の享保13年(1728)に出来たもので、2本の用水路に
囲まれた約1,200haの「見沼田んぼ」や下流の田んぼをうろおし
ました。

 東西2本の見沼代用水が狭まる地点に、享保16年(1731)には
見沼通船堀(つうせんぼり)が設けられました。

 見沼田んぼの中央を流れ、見沼田んぼの余剰の水を排水した芝川
と、2本の見沼代用水路を東西に結ぶ約1kmの運河です。

 芝川を中心にして、東側が約390m、西側が約650mです。

 通船堀は、見沼代用水周辺の村々と江戸とを船で結ぶためのもの
ですが、芝川は排水路なので低く、見沼代用水は農業用水路のため
高い台地の縁を流れており、3mの水位差がありました。

 その水位差を克服して船を行き来するために、通船堀には2つずつ
の関(閘門(こうもん))が設けられました。

 この関で水位を調節しながら船を上下させて、芝川と見沼代用水を
結び、荒川(隅田川)から芝川、見沼通船堀経由、見沼代用水路への
舟運が可能となり、江戸と見沼代用水路周辺の村々との流通が活発
になったのです。

 関(閘門)を使って船を通す形態の運河を、「閘門式運河」と呼び、
世界的に有名で規模の非常に大きいのが1914年建造の「パナマ
運河」です。

 日本では、江戸時代から見沼通船堀と似たような運河が建築され
始め、京都の高瀬川、出雲市の来原岩桶、岡山市の倉安川吉井水門、
茨城県東茨城町の勘十郎堀などが造られたようです。

 前置きが長くなりましたが、見沼通船堀には、最近復元された関が
東に2つと西に1つあり、東側の関で今日、閘門開閉の実演が行われ
ました。

 場所は、JR武蔵野線東浦和駅から東に1.2kmほどのところです。

 午前10時と午後1時からの2回実施され、私は午後1時からの実演
を見に行きましたので、その様子を報告します。


関は木造です。上流側の2の関から下流の1の関方面を見たものです。
2の関と1の関との距離は約90mです。


 2つの関の中間から見た1の関(下流側)です。普段はもう少し水量
が少ないのですが、あらかじめ関をとめるための「角落板」(かくおとし
いた)が2枚入っているようです。


 同じ状態での2の関です。手前にある舟は、当時のものの1/2の大き
さとのことでした。


 2人で何枚目かの角落板を入れているところです。水圧で自然に
関に抑えられるように操作しています。


 当時の1/2に復元された舟、帆柱も立っていますが、帆は張って
ありません。真ん中に乗っているのは米俵です。


 下流側の1の関、だいぶ水位が上がったのがお分かりでしょうか。


 さらに水位が上がっています。そろそろ終わりのようです。


 上流の2の関もかなり水位が上がってきました。舟は帆柱を外して、
櫓(ろ)でこぐ状態にしてあります。


 角落板が全部入りました。ここまでで50分あまりかかっています。


 これで舟も2の関を通過して上流に進めそうです。関を通過する
ときは、20人ほどの人が舟を引っ張り上げたようです。


 舟が2の関を通過した後、1の関の角落板を順次外します。その際、
下流の芝川に向かい、大きな流れが起きます。


 この写真で、1の関の水位の上がり具合がお分かりかと思います。


 2の関(上流)側の土手(右)にも、水位の上がり具合が残っています。

 今年2月14日には、皇太子殿下ご夫妻もここへ来られ、閘門開閉の
実演をご覧になっておられます。

 8月3日のブログで紹介したように、英国・オックスフォードのテムズ河
にあった閘門を7月12日に見てきたこともあり、今回の実演は大変興味
深く見ました。なお、見沼通船堀は、国指定史跡になっています。

  


 

 


 

  



 
コメント (5)
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