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あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

さいたま市「浦和くらしの民家園」

2006-08-28 23:42:32 | Weblog
 昨日、見沼通船堀の閘門開閉実演を見た後、見沼代用水東縁へ
出て北に進み、さらに国道463号沿いに回り、「浦和くらしの民家園」
へも寄ってきました。

 ここも以前、2~3回行ったことがあるのですが、7月に行った英国・
コッツウォルズで、何か所も「かやぶきの家」を見てきたので、ここに
あるかやぶきの家も、もう1度見てこようと思い出したのです。

 国道側の入口を入ると、左手には国の登録有形文化財「旧浦和市
農業協同組合三室(みむろ)支所倉庫」があります。

 もとは、栃木県小山市のかんぴょう問屋の倉庫だったものを、昭和
31年(1951)に移築し、政府指定米穀倉庫として使用されていた
ものです。

 大谷石土蔵づくり、トラス小屋組寄せ棟の瓦葺き屋根です。建築
年代は大正8年(1919)です。

 移築された昭和30年代は、この辺り一帯は見沼田んぼが広がって
いたでしょうから、その田んぼから収穫された米が、たくさん倉庫に
収蔵されたことでしょう。

 倉庫のあった三室は、見沼田んぼの西側の地名で、現在は、カン
トリーウオークの仲間6人がお住まいです。

 倉庫の西側にあるかやぶき平屋の建物は、旧高野家住宅です。

 中山道沿いの岸町にあったもので、現存する中山道浦和宿の商家
では最も古いものとのこと。建築は江戸末期の安政年間(1854~
60)のようです。

 入口には、「高野煎餅」ののれんが掛かり、中に入ると、売っていた
煎餅(せんべい)入れのガラスビンが並んでいました。


 この建物に並んでいる瓦葺き白壁の建物は、旧綿貫家住宅です。

 綿貫家は、肥料と荒物を扱う商家で、建築は江戸末期から明治初期
と推定されているとか。
 
 明治21年(1888)の浦和宿の大火にも焼け残った貴重な建物です。

 円形の緑地を挟んで南側には、旧蓮見家住宅と旧中島家穀櫃(こく
びつ)、旧武笠家長屋門が一つの屋敷の中に配置されています。


 旧蓮見家住宅は、寄せ棟平屋のかやぶき農家です。

 広間型三間取りとよぶ、この地方の典型的な古民家の特徴を持つ
家とのことで、江戸時代中期の建築と考えられ、現存する市内最古の
民家のようです。


 旧中島家穀櫃は、農協倉庫と同じ三室の中島家のもので、寄せ棟
かやぶきの小建築ですが、通気性のよい穀物の保存に適したつくりに
なっているようです。

 屋敷の南側は、旧武笠家長屋門、同じ三室の武笠家から寄贈を受け
たかやぶきの長屋門です。


 武笠家では、正規にこの門を開くのは、冠婚葬祭の特別の日に限られ、
普段は別にあった通用門を使用していたようです。


 長屋門には、大八車や、背負い篭、とうみなどの農具が保管されて
いました。


 長屋門の庭側に立てかけてあった竹馬に、子どもが挑戦していました。

 私も小さい頃は、竹馬に乗ってカツブシカキ(乗ったまま竹を交差させ
て鰹節を削る時のような音を出す)も出来たので、乗ってみようかと思っ
たのですが、落ちて足をくじいてはと思い、止めておきました。

 これら屋敷の西にあるのが、旧野口家住宅。市内大谷口にあったもの
で、野口家は、旧大谷口村の安楽寺の住職をつとめた家とのこと。

 この建物は庫裡(くり)として使用されていたそうですが、同寺は、明治
初年に廃寺となり、その後は同家の母屋として使用されたようです。

 建築は、安政5年(1858)の墨書が確認され、この時期かそれ以前の
建立と考えられているようです。

 いろりにある自在カギや、太い梁の天井などが、歴史を感じさせて
くれます。


 それにしても、英国・コッツウォルズで見てきた、家の回りを花や
ツタで飾り、切り込みを入れたかやぶき屋根の民家を思いだすと、
お国がらとはいえ、ずいぶん質素に感じられました。






 

 
 

 

 

 

 
コメント (2)
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