魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

気くばり

2014年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

岡村隆史が、付き合う女性の条件として、「箸を洗った後、立てる上下を気にしないような人はイヤ」と言っていた。
もしかしたら、世の中には、この意味を解らない人が、結構いるのかもしれない。

家相とか気にする割りに、家の窓の開け方を知らない人がいる。
解る人にはくどい話しだが、二階建ての家は一階だけ開けても意味が無い。二階と一階を開けて、上下に空気が流れるようにしなければいけないし、同じ階でも、空気の流れを考えて、離した位置を開けなければ意味が無い。換気扇を回しても、他にどこか一カ所は開いてなければ、出入りの流れができず、却って色々と問題が起こる。

そういうことを考えずに、一カ所だけ開けたり、何でもかんでも開ければ良いと、家中開けて回る人がいる。それは全開に越したことはないが、却って暑い寒いや湿気などを呼び込むこともある。
理にかなった開け方をすれば、ほんの少し開けるだけで、家中の空気を入れ換えることができる。

スマホでも、上を向けて置くか下を向けて置くか、状況によって変わるから、一概にどちらが良いとも言えないが、その都度、考える人と、無頓着に置く人がいる。

家相とか作法の問題ではない。何事も、自分で考えるか、知識で行動するかの違いだ。礼儀作法にうるさい人ほど、自分で考えようとしない。
だから、何か新しいことをしようとすると、固まって動けなくなる。どうして良いか教わっていないからだ。

行動の前に考えること
近頃の日本人は、と言うより、日本社会全体が、固まって動けない。
細かいことを、あれをしてはいけない、これをしては失礼だ、恥ずかしい、空気が読めないと、互いに監視、牽制しあい、何もしない目立たないことを、美しい日本、礼儀正しい日本だと誇りに思っている。

車内では「携帯で話すな」が、当たり前になり、いつの間にかそれがエスカレートして、声を出すこと自体が失礼になり、電車や旅先で知らない同士が声を掛け合うこともない。同行者すらヒソヒソ話だ。
それでいて、ツイッターやBBS では、見ず知らずの相手に、好き放題の暴言を吐く。

規則や礼儀という知識に、異常に忠実で、相手や状況を観察して自分で判断し、妥当な対応をすることが出来ないマニュアル社会だ。
知識偏重の学校教育、受験制度が、日本人の思考力を完全に麻痺させ、社会全体が、個の思考力、個の力による柔軟性を失ってしまった。

昔の美しい日本と言う人は、何時の時代のことを言っているのだろう。幕末明治に日本に来た、外国人が感動した日本のことを言っているのだろうか、学徒出陣や靖国神社の前で整然と並ぶ人々のことを言っているのだろうか。

明治初期に外国人が書き残した伝説の美しい日本は、江戸の文化のことであり、その頃の日本人は、素朴でありながら、個々の智恵や、互いの声掛け、思いやりに満ちていた。
職人は現場で何日でも考え、泥棒が入れば諭して金を与え、多くの人が建白書を書き、政府もそれを聞いた。四民平等になると、日本中の人が商売や起業を始めた。とにかく生き生きしており、今のようなロボット人間ではなかった。

生き生きという点では、また、終戦直後の日本人も同じだった。束縛から解放された時、日本人は途方もない創造力を発揮する。
束縛と洗脳は、法律が生むのではない。束縛の法律と、神話めいた国粋論は、自分の頭で考えない知識と、自由を拒否する社会が生み出すのだ。

気くばりとは、知識通りに正しく行われているかのチェックではなく、何事にも、これはどういうことだと考える姿勢のことだ。