上下思想の中韓儒教国は、日本を引きずり降ろせば、自分達の立場が上がると錯覚している。
平和的台頭と称する中国の夢とは、自分流のタテ秩序に落ち着かせることであって、皆が対等に協議し合う世界のことではないようだ。
古代より大陸でせめぎ合い、席の奪い合いを繰り返してきた兄弟達には、日本叩きは、むしろ、絶対必要な敗者の「残党狩り」なのかも知れないが、その混乱の大陸から逃れて静かに2000年を過ごした、島国の一人っ子、日本にとっては、甚だ対応に苦しむ人々だ。
決して、日本の侵略を肯定するものではないが、ここまで責め立てられ、極悪人と決めつけられると、ふと、振り返ってみたくなる。
一万年にわたり、民族の興亡を繰り返してきた、この東アジアにおいて、日本のような存在は初めてだったのだろうか。清朝も元朝も中国だったのだろうか。ニコニコ笑いながら中国の支配を確立したのだろうか。国民党やら共産党やら、一体、何が中国なのだろう。
今日、ここまで日本叩きをするのは、中国共産党の正当性の不安、共産党自身も大日本帝国と同じ、賊軍勢力であった後ろめたさを隠したいからではないのか。そして、それは、もしかすれば、両者が同類の軍国主義ライバルであることの証明ではないのか。
必要以上に、他者の抹殺、徹底的な屈服を強いるのは、自分の正当性が危ういからであり、敗者の血統を根絶やしにする、野獣の習性だ。
いま、「八重の桜」で、また会津攻めの不当をえがいていたが、錦の御旗を掲げた新政府軍自身が、自らの正当性に不安を抱いていたからこその根絶やし作戦だった。
何度も言うことだが、日本列島の東西原理は、東アジアに当てはまる。
「東西の日本」、「東(笑)西」
声高に道理を唱える西の原理には、東の「武士の情け」など無い。西の情は「直情」だ。「情け」とはその場の直情反応では無く、思慮から生まれる思い遣りだ。西の早口多弁、東の寡黙は、その傍証だろう。
直情的な西の原理は、即物的な実利第一主義であり、その最大の武器は説得力だ。説得力と言えば聞こえは良いが、宣伝と洗脳だ。
だから、何が何でも、先ず大声で正当性を主張する。
正史は勝者の歴史だと言われる。中華文明こそが、神話を歴史にして帝国を維持した文明であり、その文明は東アジア全域に広がっており、日本もまたその例外ではない。日本には正史2673年という1500年余の文明史がある。
三代の北朝鮮王朝史を笑うなら、韓国の歴史主張や、中国の核心利益に憤るなら、それは、東アジアの正史の対決に参加することであり、声の大きさだけを争う泥仕合の、宗教戦争に他ならない。
口喧嘩に、言い優ったところで何の利益にもならない。黙って身を隠し、言いがかりの種を消し、黙々と実利を得て、喧嘩商人を閉め出すのが大人であり、本当の先進大国というものだろう。