魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

開運作法

2013年08月18日 | 占いばなし

運を良くするために、手術をして手相を変える人がいるそうだ。
これは手相というものが解っていない喜劇だ。いや、悲劇かな。
手相はそれまでの生き方の結果であって、そこから未来は予測できるが、手相が運命を作るのではない。

能力も無いのに、骨董屋で金メダルを手に入れても、オリンピックで優勝したことにはならない。もっとも、これを家宝にして10代ぐらい後の子孫に、メダリストの子孫だと、ウソの栄光を残すことはできるかも知れないが。

人相も、過去が表れるものだが、整形で顔を変えれば、確かに有利な面が有りそうだが、邪道であり、必ず弊害がある。自分の顔は生き方で創るものだ。「四十過ぎたら自分の顔に責任を持て」の通りだ。
同様に、改名にも多少のメリットはあるが、これも、悪銭身につかずではないが、実際にその運が無ければ、結局は使われることは無い。

また、家相にしても、確かに良い環境で暮らせば運は良くなるが、箸の持ち方矯正ギブスみたいなもので、何よりも本人に「その気」が無ければ、結局は、ギブスそのものを壊してしまうか、骨折や肩こり頭痛まで起こしてしまう。普通は、その前に使わなくなる。

どんなに良い家相の家に住んでも、住人の暮らし方や、心構えが悪いと、あっと言う間に悪相にしてしまう。
通路や階段に物を置いてはいけないのだが、どうしても安易に置いてしまうのが人情だ。(鬼門、裏鬼門に物を置いてはいけない)
建築基準法に則った建築でも、避難路に物を置き、火災で大量の被害者が出るケースは後を絶たない。これなどもその例だ。

こんな解りやすい例でなくとも、その人の生活の仕方、動線、物の持ち込み、訪問者のタイプ・・・等により時間が経てば、住まいはすっかりその人そのものになってしまう。大きいとか豪奢とかは関係ない。
立派な家でも、何となく小汚かったり、あばら屋でも楚々とした佇まいであったりする。

運命指標に細工をして運を良くしようと考えるのは、本末転倒だ。
開運を願うなら、占いが示す自分の運を、謙虚に受け入れ、その素材(資質と運命波)を如何に活かすかを考えるべきだろう。

開運に免罪符やあんちょこは無い。それを吹聴する占い師や祈祷師、霊感師や宗教は、全てインチキと考えた方が良い。例え、悪意は無かったとしても蒙昧だ。
占いの可能性を信じるからこそ、先ずこうした害毒を取り除きたい。

物事を掘り下げない人は、占いであれ宗教であれ、人生をガチャンコで買えると思ってしまう。その反対に、たかがガチャンコだとバカにする。

占いでも宗教でも、人間問題だ。それを知りそれを活かすのは、個人の目覚め、発願心であり、聞こうとする耳が無ければ何も始まらない。

手相の手術をしても運命は変わらない
生き方と運命に合わせて、また、それを相殺する線ができるだけだ