魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

新聞

2008年04月12日 | 日記・エッセイ・コラム

4月6日は「新聞をヨム(46)日」だそうだ。すると、8月14日は廃止の日?

占いとは関係ないが、30年前に共同通信の取材をうけた。
今後のビジネストレンドは?と聞かれて、「電話です」と力説しながら「新聞はなくなるでしょう」と口を滑らせてしまったら、記者の目がギラッと光って「どういうことですか?」と怒ったようなバカにしたような雰囲気になった。
『しまった』と思って、「いや、紙ではなくなるということです」と言い訳をすると、安心したように「当然だ」という顔になった。
しかし、内心『新聞発想が無くなるんです』とつぶやいていた。

新聞社はまだ存在している。しかし、使命を権威と取り違えて仕事に就いた頭が、根本的に切り替わらない限り、そのうち消滅する。

これは予言話でも自慢でもない。
当てもの予言や、占いショーはどうでもいい。
生きていく上で大事なことは、将来予測だ。
桐一葉落ちて天下の秋を知る・・・
今起こっている事象から、将来を想像、予測し今の行動判断をする。
それは占いとは関係ない、想像力だ。

手塚治虫の予言的な発想は、決してゼロから生まれたものではない。
当時、散在した微細な話題や知識から、妄想して生まれたものだ。
ところが、同じ情報に接している同時代人は、今咲いている花しか花だと思えない。柿の種よりおにぎりに価値を感じる。

原子力発電ブームで東芝の株が上がった。武田薬品はアメリカのバイオ企業を9000億で買収するそうだが、いいのかな。
世の中は、「賢いハズ」の人が賢いことをするとは限らない。

自民党に至っては、選挙結果の意味がいまだに分かってないようだ。
与党も野党も、50年先すら考えていない。
政治家の考えることは、立て前だけでも「100年の計」だろう。
しかし、彼らにとって未来とは、現在の逃げ口上に過ぎない。

もっとも、100年先が見えたとしても、対応対処能力がなければ
ただの貧乏占い師だが。