魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

必ずある

2013年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム

また、桜島が噴火した。ニュースでは、火山灰に悩まされる鹿児島の様子が映っていた。鹿児島の人は大変だと思うが、代々そこに暮らし、それなりに慣れている。
しかし、もし、富士山が噴火し、東京に火山灰が降ったら、こうはいかない。すべてが停止し、甚大な被害が出る。

テレビや雑誌では、常に富士噴火を騒ぎ立てているが、地震や津波の心配をよそに平気で原発を造ったように、実際に起こるまで、あり得ない事とし、実際に起こったら、「想定外」の大被害に為す術がない。

雪国の人は、大雪でも大きな問題なく暮らしているが、東京で5㎝も雪が降れば、一瞬にして大被害が出る。実際に何度も体験しているにもかかわらず、毎度、似たようなことを繰り返す。

東京の人間は、と言うより、災害列島の日本人は、災害と言う言葉に麻痺しているのかも知れない。実際に、目の前に無い限り、前もって有効な備えができない。大災害はただの「お話」で、心のどこかで、実際に来た時に考えようと、諦めているのかも知れない。

防災対策や訓練をいくらやっても、実際に起きた時に役に立たない対策は、ただの災害「祭」だ。
それどころか、訓練手順にこだわったあまりの、悲劇まで生まれた。

日頃から大雪が実際に降ってくる雪国の人は、大雪訓練などしないが、多少の大雪が降っても、生活が滞るようなことはない。
富士山が突然噴火しても、それを当たり前と思える日常の心構えこそ大切だ。そのためには、日頃から鹿児島の人のノウハウと心構えを、学校レベルで教えておくべきだろう。

もしも、ではなく、考え得る最大の災害を、必ず有ることととして、日頃から見せて聞かせることが大切だ。
東日本大震災でハッキリしたことは、非常事態には、事前の訓練より、釜石の「てんでんこ」の「心構え」教育の方が断然有効だった。

何が起ころうが、日頃から、それを当たり前のこととイメージし、一人一人が、自分はどうするかを考える習慣を身につけることの方が、型通りの訓練や、避難路より、よほど重要だ。災害はどういう状況で起こるか分からない。

桜島噴火と同じニュースで、海水浴中の海岸で津波が起こったらどう避難するかの実験を伝えていたが、心がけのある人なら、初めての場所に行った時、先ず、避難方法をチェックするだろう。

まともなホテルでは先ず避難路を教えてくれるが、何よりも自分で確認することだ。そして、どうにも逃げ場の無いところなら、始めから諦め、ここが死に場と観念するしかない。つまり、日頃から、それぐらいの心がけをすべきだろう。

助かるか助からないかは、「てんでんこ、てんでんこ」の自己責任だ。

災害だけではない。経済、医療、福祉も、「てんでんこ」を基本として施策すべきで、きめ細かさより、基本方針のシンプルさと柔軟性が重要だ。
高度成長期に大盤振る舞いをした日本の福祉バブル。一度ご破算にして、ゼロから組み直すことはできないものだろうか。