魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

困った事(1)

2013年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム

ネット上の嫌韓の常套句には、トンスル、犬食い、乳出しチョゴリなどの言葉が溢れている。
嫌韓だけではない。「美しい日本」に酔う言論には、何かにつけて、公共マナーを取り上げ、中韓を揶揄している。

中韓の政治やそれを信じる国民の態度に腹が立つとしても、自国の常識を基準にして、他文化をバカにすれば、「目くそ鼻くそ」の穴に落ちてしまう。それこそが自らを貶めることだ。

今さらくどい話だが、「違い」は、単なる事実であって優劣では無い。
三角、四角、丸に違いはあるが、優劣は無い。
野球をするにはボールの丸が優れているが、球体をテーブルにして食事をするには無理がある。

人の身体も性格も様々あるが、それぞれ一長一短で、優劣はない。
体力勝負なら大きい人の方が有利で、立派に見えるが、頭脳と技能で生きる現代では、小さい人の方が資源のムダが無く、楽に生きられる。
形体や資質の優劣は、生き方から生まれた文化による選別だ。

互いの文化を蔑視するのは、互いの生き方の違いを否定し合うことであり、生存方法、生存権がぶつかれば、結局、戦争になる。
つまり他文化を蔑視することは、自分を肯定し相手を否定して、生存を争うことだから、最終的なゴールは戦争しかない。

今、日本人の中に見られる、中韓の公共マナーへの蔑視は、西欧文明の価値観を基準としており、そういう意味では確かに、日本の公共マナーはほとんど完璧の域にまで達しているかのように見える。
しかし、それが誇れることだろうか。

知らなさすぎる
今の日本人が得意になって、「遅れている」中韓の生活文化をバカにするのは、既に日本が西欧文化に取り込まれていることであり、それだけ、何かを失っていると言うことだ。

いつものボヤキ節だが、現在の、特に若い日本人が、無邪気にバカにする中韓の文化は、確実に日本にもあったものであり、それをバカにすることは、遙かな時間の営みの中で築いてきた、自らの生き方の軸となる、「何か大切なもの」を否定することでもある。

ウンコ酒トンスルについては一言で説明できないが、泥田にまみれた農耕民の、肥料に対する信仰心からくるものと理解できる。
あえて傍証として挙げるなら、日本のトイレへのこだわりも、逆説的な名残だろう。最近まで、ウグイスの糞が美容に良いと信じられてきたし、肥だめの活用に到っては世界一かも知れない。また、人糞処理の方法として、豚や鯉の餌にしてきたことも、広くアジアの伝統だ。

犬食いについては、弥生遺跡で明らかなように、現在に至る日本文化の源流であり、実際、子供の頃には直接間接にその存在を見聞した。
決して肯定的なものではなかったが、小説や映画などにも常に話題に上がっていた。つまり、存在していた。

また、乳出しについても、以前にも書いたように、昭和30年頃までは農村漁村、あるいは下町では普通に見られたし、人前での授乳など当然中の当然で、誰もがそれを母性美として、ほほえましく見ていた。

40代にもなれば、普通に、腰巻き一つで洗濯をしていたし、少し新しければ、下着のシミーズが夏の家着だった。ブラジャーなど無かったし、当然、クーラーなど無かった時代だ。日本の夏の暑さを実感すれば、そうした文化が有ったことを、簡単に理解し想像できるだろう。

逆の立場で見れば
今、日本の捕鯨を批難する欧米諸国は、ついこの間まで、自分達も捕鯨をしていた。その連中が、あたかも神の子のように日本を鬼畜呼ばわりする。いったい、「白鯨」は何処の小説なのだ。黒船は何を口実に、日本に開国を迫ったのだ。

自分達の歴史を棚に上げて、他文化を否定することが、恥ずべき無知であると理解できないなら、その人こそが、無知な野蛮人だ。
他者が自分達の常識マナーを知らないとバカにするのは、猿の惑星で「(猿の)法律も知らない動物」と、人間をバカにする猿に等しい。

少なくとも、この点においては、中国の言う「アメリカの価値観に従う必要は無い」という主張は、正論だ。
ただし、中国の問題は、中国の主張する「道義」や「徳」を、中国自身が本当に実践しているかの方が問題なのだが。