魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

辰年竜巻

2012年05月12日 | 占いばなし

今年は辰年のせいなのか、竜巻が話題になっている。被害に遭った人からすれば、「話題」どころでは無いのだが、世相という観点から見れば、そう言うしか無い。

世の中に、災害災難は、常に多様に発生しているが、話題になりやすい事柄と、そうで無い事柄がある。それも、同じ出来事でも、集中的に話題になる時と、全く見向きもされない時がある。
それが、世相というものだ。

子供の頃、病院から帰ってきて、「鼻が悪い人って多いなあ」と言うと、父が「お前、耳鼻科に行ってきたんだろ」と大笑いした。
一部だけを見ていれば、世の中すべてをそうだと思ってしまうものだと諭された。

世相は、この耳鼻科の待合室のようなものだ。何か特殊な事柄に目が行くと、世の中の「話題」が、それ一辺倒になってしまい、他のことが忘れられてしまう。
「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬に噛みつけばニュースになる」と、探し回るマスコミは、人と犬がいるだけで、「犬を咬むぞ」と騒ぎ立てる。

もともと、井戸端会議と言うように、恣意的な理解をしたがるのが人の常だ。それがシステム化したのが、マスコミであり、さらに、近年のネット社会は巨大な井戸端だ。「話題」は常に、稲穂を渡る風のように、どこかに関心が集中して動いていく。
竜巻は正に空気の集中だが、世相とは人々の意識を渡る竜巻だ。

神話は竜巻
人が、恣意的な理解をしたがるのは、五官で生きている動物から、思想を持って行動する人間になったからで、「こうだから、こうする」と、行動の根拠となる観念を求める。

原始的で視野が狭いほど、考慮する事が少ないから、簡単に結論を出す。知識の少ない原始時代、行動と納得のために神話が生まれた。神話は、少ない知識で世界を理解する智恵であり、妄想でもある。
現代でも、五官や感情で生きる人は、早く結論を「感じ」たいから、最初に出てきた現象や事情が、簡単に先入観という神話になる。

そういう人が集まっているところに、「実はこうだ」と、解説や動機付けの神話を投げ込めば、それで、わっと騒ぎが巻き起こる。
日頃は知的な人でも、情報を遮断され、自分の世界を失うと、噂という神話に取り込まれることもある。

そのような知識人は、始めからその集団の神話に共鳴し洗脳されている「その世界の知識人」であって、実は、日頃の見識も集団のものであり、確固たる自分の定見に基づいているわけではない。

集団の神話は、オームのようなカルトだけでは無い。戦前の日本や、今日の情報操作国の秀才もそうであるし、あるいは、一つの時代のパラダイムに取り込まれた我々、時代の子も、そうなのかも知れない。

もっとも、必ずしも、神話が害毒ばかりとは限らない。
大災害の中で途方に暮れ、ともすれば、生きる意欲を失いそうになる時、互いに感じ合い励まし合って、支えとするものも、神話だ。
いま、日本を支えている「絆」という意識は、知識も論理も関係ない、「我々は一つ」という思いから生まれた神話だ。

論理も根拠も無い意識の塊が、世相を作り上げる。
今年は辰年だが、「辰」とは振るわすもの。音や光はあっても実体のないもの。あるいは言葉を生む唇を表す。
目にも見えない空気が作用する風や竜巻は、家を吹き飛ばせば電気も起こす。口は災いの元とも言えば、口八丁は労せずして富も築く。
口一つが世界の運命を変えることもある。

無数の口が世相をつくり神話を語る。何の実体も無い神話が竜巻より遥かに大きな世界を動かしていく。辰は世界を振るわせ震撼させる。