魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

実像創造

2010年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム

No.916

惑星の動きが目立つ時だけに、書きたいことや、うかつに、書いてはいけないことも山ほどある。

大転換、大動乱の時は、真面目で正直な人間が真っ先に飛び出し、そういう人がみな死ぬと、様子を見ながら、後ろを付いて歩いていた人間がヒョコッと飛び出して、手柄をかっさらう。

歴史上のヒーローは、こういうネズミのような人間が、後付けで自分を美化、正当化して正史となる場合と、
動乱の中で、後ろめたいこともいっぱいやった人間が、自分(の悪事)をあまり目立たせないために、死んだ人間をヒーローに祭り上げておくこともある。

今、生きている時でさえ、目立っている人間や表彰された人間が、本当に立派かどうかは解らない。評価とはそういうものだ。
ましてや、時代の空気の解らなくなった、後世の評判など、ほぼ、フィクションと考えるべきだろう。

英雄が時代を創るのではない。時代が英雄を生むのだ。

歴史上のヒーローも、その人がいたから今日があるのではなく、
時の流れの中で、たまたまその人がそこに立っていた。
占い的には、そう考える。

そしてまた、小説家も時の大木から、ヒーローを削り出す。
読者はできあがった「像」に感動する。