魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

地観天観

2012年05月05日 | 占いばなし

「地相天相」など、ここで、事相と星の関係を、あれこれ言っているのは、「後付けで、最もらしいことを言う」ためでは無い。

星が示す周期律の信憑性を考察し、未来のレーダーである星の読み方を解ってもらおうとしてのことだ。
過去の歴史や今の星の動きを見ていれば、将来どのようなことが起こるかは簡単に想像できる。

しかし、それはあくまで予測や想像であって、事実では無い。しかも、それは、モザイクが掛かったように、焦点が定まっていない。
時には「見えた!」と思うことがあっても、錯覚かも知れない。

ただ、重要なことは、赤い実像が青く見えることは無いと言うことだ。
そのものズバリではなくても、「大体そこに何があるか」が分かれば、備えることができる。
「この2、3年に日本に巨大な災いが起きる」と公に分かっていれば、東日本大震災のような悲惨なことは、あらかじめ回避できたはずだ。

占いや予言と言えば、ほとんどの人が、何時何処で何が起きるかをズバリ当てることだと思っている。しかし、こういう「予言」はハッキリ言えば「当たらない」。
たまに当たることもあるが、それは恒常的に出せる結果では無い。
これは信仰であって、科学では無い。

占いが科学では無い?そんなの当たり前じゃ無いか。と思われるかも知れない。確かに、外れても厚かましく、次々とズバリ予言するから、結局は、「占いとはいい加減なものだ」ということになってしまう。

ズバリ予言は偶然だが、トレンド、傾向の予測なら、全くのデタラメとは言い難いことを、何とか解ってもらおうとしている。
無限にある将来の可能性から、一つの傾向に絞り込んでも、決して占いでは「的中」したことにはならない。しかし逆に、何らかの「実体の存在」なら、浮かび上がらせることになるかも知れない。

そこに確かに、何かが存在していることさえ解ってもらえれば、そこから「学」が始まるかも知れない。そんな淡い期待もある。
絞り込んだ可能性から、さらに一点に絞り込むことは、あまり意味が無い。

モザイクの向こうに見えるものが、ウナギか穴子かを当てれば、人をビックリさせることはできるかも知れないが、外れれば、「何か長いものが見える」こと自体が信じてもらえなくなる。そういうことだ。

だから、例え見えたとしても、決して軽々しく「当てっこ遊び」をしてはいけないと考えている。

今現在、あるいは歴史の事実と星が、いかに相関関係があるか。そこを解ってもらえれば、個々の人が将来を予測することができるはずであるし、それが一般的なコンセンサスを生めば、やがて、周期律の認識や研究が発展し、人類に役に立つ時が訪れるのではないか。

そのためには、占いに関わる者は、売名や金儲けに占いを使ってはならないと思っている。(金儲けとは余剰金のこと)