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占いという もう一つの眼

新鎖国論

2011年10月29日 | 新鎖国論

このブログを書いているうちに、いつの間にか、主たるテーマになって来たのは「新鎖国論」だ。

子供の頃、「何で世界は戦争ばかりするのだろう。どうすれば戦争を無くすことが出来るのだろう。そうだ!国や民俗や人種と言われるものを無くしてしまえばいい。世界中が混血すればいいんだ!」
素朴にそう思った。

これは、結構、20代初めまでそう思っていた。
しかし、いろいろな人々と接するうちに、それが、如何に素朴で横暴な考え方であるか、と言うことに気がついた。

世界は一家とか、八紘一宇とかと同類で、独善的な「和合」概念に組み込もうとする考え方であり、自分では優しさと謙りのつもりでも、相手の意志や納得を全く配慮していない。正に、一人っ子日本らしい発想だ。

お互いが、平等に尊重しあえるためには、各々が個の立場を確立し、明らかにし、それを互いが侵さず認め合うことこそが、平和のバランスの基礎になるのだ。と、そう思い始めた。

大転換の時
日本はどうやって生き残れるのか。世界の秩序はどうすれば生まれるのか。そもそも、日本は何によって日本であり続けられるのか。
そういう問題を前に、「そうだ、もう一度鎖国だ」と思いついた。

人にとって先ず重要なことが、自己の確立であるように、集団にとって先ず重要なことは、やはり「自立」だ。
集団の単位が何であるか、国か民俗かのようなことは、後で付いてくる。その前に、最小単位の自己完結こそが先決だ。
そこから連携を拡大していくことで、地域や世界が形作られていく。
「新鎖国」は、世界から隔絶することではない。むしろ統合手段だ。

そうこうしている内に、地域主権や地産地消が叫ばれるようになり、鎖国の考え方と、つながるような気がしてきた。
地域主権や地産地消が、大から小への回帰であるのに対し、新鎖国論は、小から大への方向性で、相反するようだが、これは、結局は同じ理想を秘めているように思う。

実際、具体的にどうすれば、この理想は実現可能なのか、そういう思いをつらつら考えてきたのが「新鎖国論」であり、少しずつ変化している。

回数も増えたので、カテゴリーに「新鎖国論」を加えることにした。本当は、鎖国論にも関係しているが、「古代アメリカ」など、日本の成り立ちに関することや、国別兄弟関係は、一応、別にした。
今まで「新鎖国論」のカテゴリーがなかったので、どの文章にも、「何度も言うが」とか「くどいが再び」とか書いているので、やや、目障りかも知れない。