魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

自分なり(1)

2009年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

アライグマで、子供の頃の教育が体に染みこむ話をしたが、
「お米はお百姓さんが一粒づつ苦労して育てたのだから、残してはいけません。」
そう教えられたから、ご飯を残すことが大嫌いだ。

どんなに可愛い人でも、ご飯を残す人は許せなかった。
他人が、隣のテーブルで残すのを見ても腹が立った。
外食では昔から必ず、食べられそうにない時は盛りつけを少なくしてくれと注文を付ける。
近頃、そういう人が多いのか、お店の方もすんなり聞いてくれるようになったが、昔は露骨に嫌な顔をされた。
「食べられなければ残してください!」と言う店も少なくなかった。

近頃は、「(少なくても)値段は変わりませんが」と言われるようになった。不景気のせいだろうか。

食べるものにほとんど好みはない。出されたものは何でも食べるが、ゲテモノや珍味などは、好んでは食べない。

鶴瓶の宣伝で「うまいモンは、うまい!」というのがあったが、
どんなに評判が高くても高価でも、「まずいモンは、まずい!」
というものがある。もちろん出されればニコニコと食べる。

生まれてこの方、腹の底から『まずい!』と思ったことが二度ある。
いずれも「うまいだろう」と言いながら出された料理だった。
初対面の人の家に招待された時のことだ。空きっ腹にもかかわらず、いかに不味かったのかを語りたいが、長い話なのでまたにする。
ただ、言えることは、この人達はこれを美味いと思いながら、一生、食べているんだなあ、と感動したということだ。
もちろん、ニコニコと「美味しい」と言いながら食べた。

食べるものには好みがないから、特別に美味しいものを食べたいとは思わない。グルメも手料理も興味がない。栄養さえ取れればいい。
しかし、不味いものを食べたいわけではない。その時食べたいものを気ままに食べられるのが一番幸せだ。

作ってもらったものは何でも喜んで食べるが、「美味しい」の言葉を期待されれば不味くなる。料理にかかわらず、評価や改善の話は楽しめるが、賞賛しか許されないなら拷問だ。
また、「これは美味しいものだ」と言う「評判を食べさせられる」のも不味くなる。そう聞いても食べてみたいとは思わない。

できることなら、食べるものぐらい、自分で決めたいのだ。
それが最高の贅沢だ。