昔、「リンゴが売っていた」と書いて、訂正された。
「リンゴが売られていた」が正しい。
「リンゴが売っていた」と言えば、
店先にリンゴが立ってハチマキをして
「えー、安いよ、安いよ」と、売っている姿を想像するのだろう。
しかし、関西では「リンゴが売られていた」という人は滅多にいない。
「リンゴ、売ってたで」または「売っとったで」と言う。
この場合。気持ちの中、頭の中では『リンゴを売ってたで』または『リンゴが売っとったで』と言っているのではなかろうか。
「店でリンゴ売ってるで」は「店でリンゴを売ってますよ」で、
お店の人が売るのがリンゴで、リンゴは人ではないから、仮に「リンゴが」と言っても、わざわざ受け身にしてやる必要はない。
この辺りが、標準語の論理性、東京人の理屈っぽさであり、関西人の現実感との違いなのだろう。
もう一つ、
これは、体験的にだが、東京弁を言葉尻がハッキリ聞こえないで聞いていると、つまり、意味が解らないで聞いていると、朝鮮語に聞こえる。関西弁は中国語に聞こえる。
言葉の持つ音楽性、リズムや音質、イントネーションのためだ。
日頃自分たちがしゃべっている言葉を、意味の解らない他言語のように聞くのは極めて難しい。寝とぼけて隣の部屋の話を聞いたり、遠くの話し声を聞く時に時々、聞こえてくる。
外国人には日本語がどう聞こえるか聞いてみたことがない。ただ、中国人の留学生が、「大阪で暮らすと中国にいるような気がする」と言っていたのも、この辺りと関係あるような気がする。
大阪が中国沿岸部の文化と近いのは想像がつくが、東京弁が朝鮮語のように聞こえるのは、モンゴル朝鮮あたりの影響を受けている東北に属するからかも知れない。
東北と離れた山陰出雲のズーズー弁や、山陰のイントネーションと関東とが似ていることなど、渡来人の影響なのだろう。
あるいは逆に、関西弁集団が後で入り込んできた。この方が有力だ。