魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

情は仇なす(前)

2009年05月24日 | 占いばなし

事件が起こるたびに、被害者も加害者も気の毒になる。

先日、何の記事だったか、中国人は日本のドラマを見ていると吐き気がする、という記事を読んで、その理由を知り、納得した。

中国人の感覚からすると、悪いヤツは悪い。同情の余地や悪人の立場など無い。にもかかわらず、日本のドラマでは、犯行の場で、そこに至った犯人の事情を、くどくどとフラッシュバックなどで説明する。
中国人からすれば、悪いヤツを弁護していること自体が我慢ならない。

中国陰陽の二者択一や単純言語の文化のせいか、それとも、中国社会が勧善懲悪のレベルなのか、とにかく、複層的で多様な、不確定性原理のような日本の文化が理解できないのだろう。

泥棒にも三分の理、と言う諺はどうも、日本オリジナルらしい。
大陸のように、「立場の違う者は追い払う」ことで、異論が共存しない世界と違い、日本のような狭い島国の寄り合い所帯では、立場の違う者が共存共生していく文化を培った。
(何かあると一辺倒になるのも、実は、共生の方法)

これは、世界でも珍しい、かなり高度な文化だ。地球が狭くなって、ようやく、文明国でも理解され始めたような段階だ。
どちらの立場も認めるには、知識収集と想像力が必要だからだ。

占いでものを考えるには、先ずこれが必要だと痛感する。
大局観は、さらにこの上にある。
すべてが見えると、白黒をつけられなくなるから、決断力が無くなる。
インテリの優柔不断、と言われるものも同じものだろう。
しかし、大局観の上に、行動がなければ、休むに似たりの考えだ。

三分の理があっても、犯罪は犯罪と取り決めなければ、秩序は生まれない。
その上で、「ゆるし」が生まれる