魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

歴史は芸術?

2009年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

面白おかしく、フランス語やドイツ語の物まねをしても、日本人には日本語の物まねはできない。日本語の内側にいると、日本語とはどんな響きで、どんな風に聞こえているかが解らないからだ。

同じように、
感情論で語る人は、自分が感情論で語っていることに気づかない。
こういう人に、「それは感情論ですよ」と言っても、何を言われているのか解らないから、単に、バカにされたとか無視されたと、感情的に受け止める。

言葉の生む誤解はそのようなものだ。

論理的な会話をする人たちにしても、同じことだ。自分たちだけが知っている単語とその定義で会話をしていると、自分たちだけは解ったつもりになっていても、他の人たちを納得させることができなければ、感情論と同じ事だ。

また、似たような言葉世界では、ソースを明らかにしろ。資料を見せろ。と言うのがある。一見、確かな議論をするための必須条件のように聞こえるが、その資料が本物であっても、話の総体やテーマの創出には、量的質的に、さしたる意味を持たない場合もある。
にもかかわらず、そこにばかりこだわるやり取りは、子供の罵り合いと大差ない。

科学的な検証では重要な、論理や物証が、人生や芸術の理解には障害になることもある。

これと同じように、歴史も、資料やデータをいくら並べても、どうにも理解し合えないものの一つだ。
歴史の同じ現場にいた人さえ、違う解釈をする。
歴史でなくても、人の「解釈」は、百人百様だ。

歴史というものは、どうも、本質的には芸術や哲学のようなもので、今日を生きるために意味があるのであって、どこまで行っても、科学的ではあり得ないらしい。
科学的な歴史があるとすれば、「有史以前」と言う、人間の意志が関わらない地質学ぐらいだろうか。

互いの歴史を前提に今を語り合うことは、巨大な不毛だ。
生まれる以前の過去は、誇ることでも卑下することでもない。
前世はあやなす糸、因縁の世界だ。何事も、どこかで深く関わり合っていて、当然だ。
先代の付け払いを持ち出されても
「ああ、そうですか」
それ以上でも、それ以下でもない

やっきになって否定しようとすれば、払わなくても良いような先代の借金を、新しい売掛帳に書き直されてしまうだけだ。

ところで、
星の動きで歴史を考えることは、そのような個々の立場から離れた視点で歴史を見ることになるが、星の論理で観ることはまた、一つのファンタジーであることにかわりない。
大きな違いがあるとすれば、過去も未来も同列に観る、未来志向と言うことだろうか。
ただ、明るいことばかりが見えないのが残念なところだ。