魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

オキアミ 1

2009年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム

大量のオキアミが発生する海に、大量の魚たちがそれを食べるため集まり、その魚を食べるためにイルカなどの大型動物が集まる。

子供の頃、塩アミが大好物だった。ちっちゃいエビだと思っていたが、全然違うものらしい。
体質が変わった今では、塩辛くてとても食べられない。

オキアミをよく見ると、ちゃんと複雑な体の形が整って、活発に動いている。かなり高度な生物だ。
オキアミの食べ物は、さらに小さなプランクトン。そのプランクトンもちゃんと生きて活動している。

バクテリアに至るまで・・・命って何だろう、と改めて思う。
食い食われる食物連鎖の中に、一つ一つの命があり、一生がある。

食物連鎖の頂点と思い上がっている人間も、細菌や、ウイルス、ガンなどにあっけなく冒されてしまう。
自然災害には、なすすべもない。

四苦と言われる人の生老病死など、オキアミの一瞬の命と比べてどれほどの違いがあろうか。

己の命の頼りなさ。
それを知ってこそ、命を大切なものと考えることができる。
命がこの世で一番大切と思う人こそが、命を粗末にする。

多くの人は逆だと思うかも知れない。
しかし、自分の命が世界の中心にあると思う人は、自分の命をどう扱おうと自分の責任であり、自分の勝手だと思う。当然、他人の命などその次だ。

そういう人は、少しでも自分の存在が不確かや、無意味に思えると、耐えられない。
命そのものへの不信となり、あっけなく人を殺したり、自殺する。
しかも、死を拒む自分の肉体を欺くために、他人に依存する集団自殺に頼ったり、他者への殺人で自分の死の代償にする人までいる。

命は、はかなく頼りないもの、自分の思い通りにならないものと知れば・・・、
自分の命が、自分を超える、大きな力によって支えられているものと知れば・・・、
死も生も、自然の一環、一部であると知れば・・・、
死を終着点とは考えない。
究極の選択に「死」を選ばない。
むしろ苦しい「生」を選ぶだろう。

死も生も同じものだと言って、死を選ぶとすれば、究極、自分のことしか考えていないからだ。


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