魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

小心萎縮

2021年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

イギリスではワクチンを打つ人が足りないので、法改正をして、ボランティアの講習トレーニングで注射に当たらせ、一気に大量のワクチン接種ができた。やっているうちに驚くほど技術も上達したという。何しろ注射だけしているのだから。

だから~あ
ボランティアを養成すべきなのだ。
案の定、日本の専門家は、「とんでもない!」のスタンスだが、日本のこれが、全てをダメにしている。
人間がやることなら、志と知識さえあれば誰でもできる。
ボランテアを主張した時、保守的な日本を念頭に、医療の下働きと書いたが、イギリスの例を見て、やはり日本の「専門家」の意見は、下働きまでしか容認しなかった。
実際、一般人も「素人が注射!?そんな怖いことを!」と驚くが、日本人の「信仰心」は、人間の可能性を平たく見ない。専門分野は神の領域だと勘違いしている。
どんな専門分野も、達人も、生まれた時から専門家で生まれてきたわけではない。

日本で、わざわざ、「やり直せる社会」などと政治目標に掲げるのは、日本社会が立場や分野、学歴や生い立ちで人間が定まると信じているからだ。だから、人生一回の勝負と思い込んで受験に必死になる。世の中もそれに合わせて動く悪循環だ。ジェンダーも同じ感性だ。
どんな人も、能力と意思次第で何にでもなれる。どんな専門家も基本はただの人間だ。
このことを、それぞれが認識しないから、「先生様」を崇め、専門家は門外漢を認めようとしない。
外部からの破壊がない限り、これが日本をどんどん老化させ死に追いやる。幸か不幸か、黒船が来なくても、日本には天災が定期的に起こって、ゼロからの出発を強いることで、長い歴史を維持してきた。逆に言えば、日本は黒船や天災が来ない限り、自らご破算にして考える感性が育たなかった。

人間の可能性を信じ、何でも「やってみよう」の精神がない日本では、注射をすることさえ、基礎から勉強をした人しか認めようとしない。麻薬を打つ人間は、全く知識がなくても自分で注射をするし、戦場や戦後のドサクサには患者が自分で注射をしていた。もちろんムチャクチャな話だが、注射そのものは誰でもできるのであり、方法と危険性の知識さえ講習すれば、十分に間に合う話だ。実際、注射の上手い下手は学力に関係ない。

完璧を求める慎重さは、日本のあらゆる可能性を閉ざしている。
今回のコロナワクチンがなぜ日本ではできなかったのか、みな不思議で仕方ないから、予算をケチっていたからだと、金の話になっているが、金以前の問題だ。
日本人の求める完璧主義が、薬剤開発においても道を閉ざしたのだ。
日本では、何のかんので薬品の承認が絶望的に遅く、開発は全て海外に出て行った。この問題はずっと言われているにもかかわらず、結局は、もう抜け殻状態になっていた。
デジタルにせよワクチンにせよ、これだけの遅れを生じたのは、日本人の完璧主義が失敗を怖れ、小心になり、自己変革を拒否して、新しいものを受け付けないからだ。
挙げ句の果てに、海外から買い付けたワクチンまで承認に時間がかかる始末だ。

今、日本に必要なものは、日本人が嫌う、失敗とデタラメを、お笑いではなく、本気で面白がる精神と、責任追及より革新案への名乗りと、応援を盛り上げる風土だ。


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