魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

桜のとき

2010年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム

今年の桜は早くから咲いたが、寒の戻りや長雨で、今も咲いている。
おかげで、北日本をのぞけば、全国花盛りで、これもめずらしい。

潔く散る桜が、日本人の心情にあうから愛でられてきたと言うが、昔の桜は山桜だそうだから、そう簡単には散らなかったはずで、むしろ、豪華で暑苦しい咲き方をしていただろう。
和歌に出てくる花は、やたら、「散るなよ、散るなよ」と心配されているが、歩いて花見に行く時代に、心配している暇があるほど、長く咲いていたということだろう。

しかし、桜と言えばソメイヨシノになった今では、ほんとうに、あっという間に散ってしまう。テレビで、「桜が咲きました」と聞いて飛び出しても、もう散ってしまっていることさえある。

それが、今年はこんなに満開で、どこまで行っても、むら無く一斉に咲いている。

桜の季節ほど、悲しいときはない。
満開の桜を見ると、わけもなく悲しくなる。
何でそうなのか、桜の記憶がすべて、楽しく暖かいからかも知れない。

小学校の入学式の前の夜、市から配られた文具セットの、十二色のサクラクレパス。そのフタを開いた喜び。
家族と行った夜桜見物で、父がはまった水溜まりのおかしさ。
思い起こせば、何一つ嫌な思い出はない。

しかし、だから、悲しくなる。
もう二度と、帰ることのない日々への惜別か、芽生えに約束された終焉か、それとも、陽光の耀きに潜む陰なのか。

春の日のやぶれない光ほど、悲しいものはない。


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