魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

道理思考

2021年11月08日 | 占いばなし

科学時代の現代でも、根拠の無い言説に振り回される人は少なくない。と言うより、その方が多数派だ。
恐怖や快楽、願望で情緒的に言葉を聞き、その言葉に流される。言葉の持つ意味や多面性、発せられた背景などは考えず、いきなり信じ込む。
これを逆用するのが「レッテル貼り」であり、刺激的な言葉や、事実を装う情報でレッテルの信憑性を高める「ステルス洗脳」が横行する。

そんな馬鹿なことはしないと、理性を自負する人も、実は科学「信仰」に洗脳されている。コロナ禍で流行った言葉、ファクトやエビデンスは、科学的裏付けと信じられているが、事柄や数値の意味を理解できる人は、ごく希な専門家で、大多数の人は結局、そうした言葉のイメージが生む「レッテル」しか見ていない。
詐欺師の話はなぜか、理路整然とつじつまが合っている。次々と繰り出す単語を、聞く側が勝手に自分でつじつまを合わせ、話を成立させるからだ。「皆まで言うな、解る解る」と勝手に理解し、思い込む。
オームの麻原彰晃に、高等教育を受けたエリートが付いていったのは、彼らの願望とプライドが、知識を駆使してでたらめな話を補い、「超人」教祖を完成させたからだ。

知識豊富な現代人は、「ウイルスが」、「何%が」と聞くと、ウイルスや統計の奥深さなど考えもせず、有り余る知識をつなぎ合わせ、解らないところは「専門家の保証」でスルーし、全部解ったようなつもりで「えらいコッチャ!」と走り出す。
科学時代の今日でも、世の中は情緒的な信仰心で動いている。今回のコロナのように未知の脅威の前では、たちまち馬脚を現す。コロナ禍も、実は情報パニックだ。

捨てられた方法
今日の判断根拠が科学であるように、古代では占いは立派な判断基準だった。
科学時代でさえ、曖昧な情緒的判断が世の中を動かすのだから、占いの時代は言うまでもない。ましてや、科学時代の化石となった占いは、人心を惑わすだけの妄信であり、実際に、世の中ではそのような存在だ。

当然、占いに関わるには、この点を厳しく踏まえなければならない。
占い信者の情緒に迎合せず、一方では科学的な「正しい情報」にもこだわらない。事実としてあることよりも、あり得ることは何かを常に求める。
ワニの河を渡るヌーの群れは「何頭」死ぬかではなく、結局、ヌーとワニは絶滅するのかしないのかが問題だ。全財産を失った人は、失った「額」よりも、死ぬのか生きるのかが問題だ。迷信も科学も超えて、大切なことは何かを考える。
合理性でも情緒でもなく、事実を超えた実体、「ことの本質」を探る。それが本来の占いマインドだ。占いの信者になってはならないが、迷信と一蹴する人も、また別の信者だろう。

占いは森羅万象の原理に従うことであり、動機においては科学と変わりはないが、事実よりもその背景を見る。これは、道理を求める仏道修行に通ずる。
仏道修行は自ら法を悟り体現することにあるが、占いは法を利用する。あえて言えば、スポーツ選手と観客の違いだろうか。主客の違いはあっても、ともにスポーツの価値を知っている。
ただ、仏道も占いも、スポーツ科学のような手段ではなく、道理によってあり方の是非を問う哲学だ。

「何が正しいか解らない!」と混乱する情報過多の現代こそ、道理が求められる。
情緒に支配されていた非科学時代の占いや宗教は、実は、情緒を排除する試みだった。迷いを断ち、とるべき行動を考える。それは、現代においても何も変わらない。
科学時代の現代さえ、世間は科学を迷信に変える。直情的判断は、人が動物である限り逃れられない習性だ。
今、世界的に宗教が見直されているのも、情報過多の「迷いの時代」だからであり、占いもまた「迷い」を断つ方法としてある。

科学と道理の遭遇
科学が到達した、実態を見極める一つの手段として、AIによるビッグデータ解析が進化しているが、現在の所、これの受け止め方もやはり量的解釈に止まっている。古代の宗教や占いが求めていたものは、物量や経験を超えた不変の道理だった。

道理から考えるとは、たとえば現在、気象データの解析が温暖化を示していたとして、それを戻すべきかこのままで良いかを考えるのは、AIによる分析や真偽論争ではなく、道理による。
温暖化を止めようとするのは現状を守るためだが、放置すれば人類は滅び、地球は再び常態を取り戻す。また一方、止められない温暖化の中で、人類が進化し適応し、宇宙に生き延びたりするのなら、それは、宇宙生々の使命なのかも知れない。
そうした諸々の状況と可能性の前で、あるべき姿、とるべき行動は、科学ではなく道理にある。科学は事実しか示さない。
道理には形も論理も無く、説明が付かない。なぜなら、人智を超えた次元にあるべきものだからだ。デタラメな謀りのように聞こえるかも知れないが、要は、敬虔で謙虚な思考の姿勢だ。
道理に基づいて考えれば、
知りうることが全てでもなければ、知らないことを怖れることもない。
そして、自分で考えることを止めた時から、迷信に生きることになる。

 


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