魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日本的型

2015年11月03日 | 日記・エッセイ・コラム

ホリエモンが、「寿司職人が何年も修行するのはバカ」とツイートして物議を醸しているという、サイト紹介があった。
伝統と、ホリエモンとどっちが正しいか、一概には言えないが、
思い出したのは、柴田錬三郎が「図々しい奴」で、羊羹のとらやに入った主人公が、年功序列の規制を無視して、いきなり羊羹を作ってしまう話だ。
この柴田錬三郎の反骨精神と同じものを感じるというか、ホリエモンは実践している。

日本人は、あらゆることを、常に型にはめようとする。これは、何も日本人だけでもなく、礼儀作法など、どこの国でもその傾向はあるが、日本ほど、他の文化に邪魔されずに過ごした国は珍しいから、どんなに間違ったことでも、型にはめることが、簡単に、まかり通ってしまう。
そして、型にはめることが、最も確実なことだと信じる文化が生まれた。

この空気で過ごしている日本人にとっては、全く無意識で気付かないことだが、例えば家元制度とか、何でもかんでも神社に祭るなど、これも、形を作ってしまって、それからでなければ考えられない日本文化の有り様のひとつだ。

飯炊き3年にぎり8年のような、形式の中でこそ、本質が理解できるのだと言われれば、これをどんな論理でもって否定しても、誰も納得しない。理屈ではない、その型にはそれなりの理由があるという、信仰心の方が説得力があるのが日本の社会だ。

確かに、スポーツでも学習でも、定型の方法に則ってやれば、多くの人には効果的だ。
しかし、天才的な能力を持った人の場合、時にはそれが阻害要因にもなる。
日本文化の型の多くは優れていることが多いかも知れないが、同時にそれは、限界を作り出し、可能性を抹殺する。
また、同時に、型による退廃も起こる。杭のデータ不正や、小保方氏の博士号取り消しなども、形式主義の退廃によるものだ。

こうした、日本的「型の信仰」の否定という意味で、ホリエモンの言うことには大いに納得できるし、同時に、型の中にある大枠の真理、時間と経験が育む「実力の厚み」という側面にも納得ができる。

要は、日本的型の尊重には、常に、型が全てではない、「しょせん型」であるという認識が必要だと言うことだろうか。


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