魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

まほろば(6)争いの装置

2010年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

冷戦後、世界中で起こった地域紛争で、世界中の人が「民族」のバカバカしさを目の当たりにし、宗教テロで、狂信の恐ろしさを知った。
だが、それでもなお、当事者達はいまだに、狂信から抜け出せないでいる。

人種、民族、国・・・これらは全て、争いの装置だ。
これを基準に物事を考える人は、それ故に戦わなければならないと思っているが、実は逆だ。始めから闘争心を正当化する理由として、これらの概念にこだわっている。スポーツ試合のチーム別けだ。

例えどんなに穏やかに見える人でも。これを前提で発想する人は、ハ虫類脳からの論理展開をしているので、本音には闘争心がある。
もちろん、猛獣の檻の中に入れられたら戦わないわけにはいかない。
どんなに高邁な心と智恵で説いても、野獣には言葉が通じない。

この逆に、仏教ではトラに肉体を食べさせよと教えるが、これを言葉通りに受け止めれば、現実無視で説得力がない。
しかし、そうした心を持って、接すれば、猛獣と付き合うことができる、と言う意味なら、難しいが不可能ではない。

虐げられた境遇から生まれた、ユダヤ教の流れを受け継ぐ一神教には、異端に対する排他性がつきまとうが、
優越者から生まれたバラモン教の流れを汲む仏教には、虫の良さとともに、何処までも相手を理解しようとする多様性の共存がある。

仏教を受け入れ、仏教で治めようとする地域や集団には排他性がないが、排他的で自己中な野獣の世界で生き残るのは極めて難しい。
仏教を支えに生き残った国は、辺境の地域や、日本のような島国だったからだろう。

世界中が日本のことを排他的だと思っているが、それは自分たちの色メガネを通した理解だ。日本は元来、時間をかければ何でも受け入れる。
自分たちのように直ちに反撃して、自己主張しないからと言って、排他的に拒否していると思うのは、自分達の排他的な考え方であり、日本は何とか受け入れようとして、本来は時間をかけて悩んできた。

ところが、
その日本が明治、天皇を前面に出し、狂信的な自己主張に向かった。
これは、幕末に日本を圧迫した西欧列強に、「キレた」結果だ。
と言って、失敗を列強のせいにするわけではない。カオスの中で生まれた対抗の形体は、一時的には成功した。

神を持たない日本が、一神教の列強に対抗するためにホコリを払って、持ち出した天皇は、既に千年以上も権力ではなかったが、確かに、神や天にかわる規範ではあった。問題は、それが人間だったことだ。

古代権力を、実力の無い権威に変えていた日本だが、神性化した権威が、改めて権力の場に現れたことで、権威と権力が一体化し、ブレーキのない暴走車となった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿