
ポゴレリチの20日(土)大阪公演と21日(日)豊田公演に行って来た。
両日、同じリサイタル・プログラム。
一曲目ショパン『前奏曲 作品45』、これが文字通り「前奏曲」として
――つまりリサイタルの最初に、ほかの大曲の前に演奏されるのを聴いたのは、
ポゴレリチに関する限り、私には初めての経験だった。
ポゴレリチと言えば、世の中ではまずはテンポが激遅という前提があるが、
今回の前奏曲に関しては、存外、速くて、しかも余韻があまり長くなく、
ここから本日のポゴ・ワールドが開かれるという、明確な開始の一曲になっていた。
音が実に多彩でこのうえなく美しく、マチネなのに夜のとばりが降りてきて、
一気に夜想曲のような雰囲気に包まれた。
そこから、続けてシューマン『交響的練習曲』へ。
今回は、主題のあと遺作変奏5曲が入って、第一変奏に戻る構成。
例によって譜面を置いての演奏なのだが、
”主題が終わったら、後半に掲載されている遺作変奏に先に行くから”、
……等々とポゴ氏が譜めくり担当の方に指示している様子が見えて、
遺作変奏のあとには即座に第一変奏のページに戻って来なければならず、
譜面の扱いが大変そうだった。
この、『交響的練習曲』はポゴレリチの最初期からの
レパートリーのひとつで、81年にグラモフォンで録音し、
同年の初来日でも次の83年の来日でもリサイタルプログラムに入れており、
若い頃にかなり長く手がけた曲だったのだが、
84年のDavid Dubalによるインタビューの中で、
「あれについては、もうこれ以上表現するものがなくなった」
「私にとっては、枯れてしまった曲」
「ひょっとしたら、何年か後に、またあの曲に戻るかもしれないが」
等々と言っていたものだった。
そのときの言葉どおり、一旦別れた曲にまた戻るときが94年に巡って来て、
それ以来彼は、かつては取り上げなかった遺作変奏をつけて弾くようになった。
どうしてそうなったか、また遺作変奏5曲をどの位置に挿入するかについても
彼がどのように思考してきたのか、試行錯誤の跡も見えるので、
YuanPuか、どなたか(逃)、いずれ取材して下さいませんかと願っている。
おそらく現在のほうが、タイトル通りシンフォニックな演奏になっているのでは、
と想像しているのだが、80年代初期の実演には私は接しておらず、
この曲に彼が「帰って来た」経緯、及びその後の考えについて詳述した記事等も
私の知る限り出ていないと思うので、諸々、推測の域を出ないのだ。
ときに、今回の『交響的練習曲』では、
遺作変奏の5番の美しさが、特に強く切なく心に残った。
まさに珠玉の煌めき、という一曲であった。
二十代で弾いていたときとは違う、現在のポゴレリチならではの境地は、
もしかしたらこの一曲の、音の綾の中にこそ集約されていたかもしれない。
プログラム前半2曲はどちらも最初期からのレパートリーで、
彼のデビューアルバムとセカンドアルバムからの選曲になっており、
聴きながら、あの出発の日から早40年余が過ぎたことに改めて思い至り、
彼が現在到達した場所を感じて、深く感動はしたけれども、
同時に、救われない哀しさのようなものも、心のどこかで強く感じた。
こうやって、様々な出来事をのみこんで、どんな人生もいずれ終わるのだなと
思わずにいられなかったからだ。
そしてその日は、既に、そう遠い未来のことではない……。
後半の一曲目はシベリウス『悲しきワルツ』。これが強烈だった。
いつぞやポゴレリチの演奏を強いブランデーにたとえた文章を読んだことがあって、
それで行くなら私などは、既に味わい尽くしてアル中の域ではないかと思うのだが、
それでも尚、今回のシベリウスにはクラクラきた。
ほのかな灯りの揺らめきが見え、このままあの世に行ってもいいくらいの
甘美な目眩が、穏やかな潮の満ち引きのように深いところに押し寄せ、
動悸が強くなってきて、
「これはヤバい……!」
と正気を保とうとしながら幾度も思った。
聴き手が狂う、というのがポゴレリチの真骨頂ではあるけれども(汗)。
これを導入にしてシューベルト『楽興の時』を聴くと、
1年前の浜離宮では、穏やかな木漏れ日や、そよ風の渡る音だと思ったものが、
今回は「黄泉路を照らすほの白い陽のもとで眺めている何か」のように感じられた。
音数が少なく音域も広くないのに、途方もない異世界が静かに立ち上がり、
「これは、これは…変なところへ、持って行かれる…!!」
と意識の片隅で思いつつも、聴き手として引き返せず……。
シューベルトは、一体どういう音楽を書いていたのだろうか。
このまま終わっていたら帰る方法がなくなるところだったが、
ポゴ氏は確信犯なのか、アンコールのショパン『夜想曲 作品62-2』が用意されていて、
これでどうにか最初に戻ることができた、と思った。
つまり、ショパン『前奏曲作品45』を始める前の時点に。
2010年のリサイタルでは、何の曲かわからないほど解体されていた作品62-2が、
今や、私をあるべき場所に連れ戻してくれる曲になっていたことにも、
彼の経てきた道程を実感して、感慨深いものがあった。
ポゴレリチは私にとって実に特別な演奏家で、彼に関してのみ、
88年以降、ほとんどの来日公演に可能な限り行って、
ここまで35年以上に渡り、生演奏を中心に聴いてきた。
様々な時期があり、その変遷も、根底に揺るぎなくあるものも聴き続けてきて、
もう大概、彼の「あの手・この手」はわかったと、厚かましくも思っていたのだが、
やはり聴くたびにこの人は強烈で、得体が知れず、こうして燃料を投下されては、
どうしてもまた聴きたいと思わずにいられなくなるのだった。
これはもう、どっちかが死ぬまで聴くのだなとつくづく思った、今回の来日公演だった。
それにしても、あの楽譜はどうにかならないのだろうか。
19世紀的な感覚を維持したがっている(と思われる)ポゴ氏なので、
タブレットなど論外、コピー譜で編集するのも嫌なのだろうかなと思うが、
行ったり・来たりの譜めくりになるシューマンもさることながら、
ショパンの2曲など最早ばらばらで、楽譜の体を為していない感じだった。
おさえていないと、ふとした空気の動きで1枚1枚が飛んで行きそうだったし、
何かの機会にあの楽譜が損傷されたら演奏はどうなるのだろうか
という不安も、聴き手として感じた。
譜めくりを担当された方々のご苦労がしのばれる。
彼の演奏会を成立させている陰の功労者は、
間違いなく、譜めくり担当者の方々である。
追記:21日の豊田公演から27日の東京公演まで空いていて、
どうしてだろうかと思っていたが、25日に北京公演が組まれていた。
本州の西半分だけでうろうろしている私などには、
思いつきもしない公演日程であった。
尤も、81年晩秋の初来日のとき、途中で国連で演奏するスケジュールがあって、
日本ツアー最終の仙台公演の前にニューヨークまで一往復した、
……という一件よりは、極東公演として遙かにマトモな話ではあるが(^_^;。
追記2:上の文章で私は、大阪と豊田のどちらで感じたことであるかを、
敢えて明確にしないで書いたのだが、それは、
ふたつの公演の印象が基本的に大きくは違わなかったことと、
聴く側の私のコンディションの問題として、豊田のほうが状態が良く、
「昨日のはそういうことだったのか」と豊田でわかった部分もあった、
というのがその理由だ。
豊田のほうが、心身の状態が良好になった私にとって解像度が高かったし、
同じプログラムを2日続けて聴いた甲斐があったとも思った。
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