転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



朝から出ずっぱりで、くたびれたorz

午前中は、村の神社の留守番に行った。
そもそもは私の当番ではなかったのだが、
午後から父の眼科受診があり、その通院介助をすることが決まっていたので、
どのみち実家方面に行くならと、神社にも出向いた。
平日の昼間だったが、結構、参拝の方が続けて来られて、
こんな鄙びた田舎の神社なのに、お詣りになる方々があるのだなと
意外に思い、またとても嬉しくも思った。

昼に撤収して、実家に戻って、持参したサンドイッチを昼食にし、
それからタクシーを呼んで、まず某老人ホームに向かった。
父はまだホーム系列病院に入院して骨折のリハビリを続けているのだが、
外部の眼科を受診するためには、ホームに預けてある原爆被爆者手帳と、
保険証一式を、借り受ける必要があった。
それらをホーム受付で受け取ってから、改めて病院のほうに行くと、
父は、廊下で、歩行器を使ってリハビリ中だった。
理学療法士さんがつきっきりで、転ばないように補助して下さっていたが、
とにかく父は自分の足で立って、歩行器につかまり、歩いていた。
たいしたものだった(^_^;。

それから父は病室に戻り、車椅子に座って、
頼んであった介護タクシーさんが来られたので、車に乗せて戴き、
久しぶりの外出となった。
父は「体じゅうが痛いんよ」「とにかく、体が、えらい」
と文句たらたらで、自分の回復を喜ぶとか、久々の外出に気分が高揚する、
などという様子は全く無かったが、さりとて、
行きたくないとか、どこへ行くのかとも言わず、
大人しく介護タクシーさんの車に乗っていた。

眼科は市街地で、片道30~40分かかるが、父はそれにも特に文句は言わなかった。
眼科では、糖尿病網膜症レーザー治療のその後を診て戴くのが目的だったが、
父は、「たいぎい」らしくて検査に協力的でなく、
視力検査も最初だけ「右」「下」などとやっていたが、
じきに「わからん」「不明!」の連発になり、いたく成績が悪く、
本当に視力が極端に落ちたのか、やる気がないのか、
検査そのものについて行けなくなっているのか、それこそ「不明」であった。
オートレフラクトメータの機械の前に座るのも、
眼底写真を撮影するのも、いずれも姿勢の固定が無理で、
頑張って出てきた割には、結局のところ、たいして成果が無かった。
ともあれ診察で眼底を診て戴いた範囲では、問題は起こっておらず、
次回は4か月後にまた検診することになった。

眼科受診のほうは、かように「行っただけ」程度だったが、
車椅子に座った状態で市街地の眼科まで来ることができ、
検査や診察の間もとにもかくにも座ったままで居られたというのは、
骨折した当時を思えば、大した進歩だった。
本人は大して評価していないようだったが、私はその点については感心した。
そして骨折前の、曲がりなりにも動けていた時期に、
レーザーを打っておいたのは、こうなると正解だったかもね(^_^;。
帰りの介護タクシーさんの車内では、父は居眠りをしており、
寝られるということは、苦痛もさほどでないということだろう、
と私は思った。

むしろ私のほうが、きょうは午後から暑くて暑くて参った。
午前中、神社にいて体が熱くなってしまったのか、
緩い冷房くらいでは体を冷ますことができず、
車内も待合室もどこもかしこも生暖かい感じで、不快でならず、
帰りの介護タクシーさんには、お願いして冷房を強くして戴いた。
父も「暑い」と言っていたので、これは良かったようだった
(だから気持ち良くなって眠れたのかも?)。

市街地からまた、高速を使って村界隈の老人ホームまで戻り、
まず、そこで車内に父を待たせて私だけ一旦降りて、原爆手帳と保険証を返却し、
更に介護タクシーに乗り直して、父を病院まで送り届けた。
車の中で寝たためか、到着すると父は案外元気で、
看護師さんに促され、すぐにお茶を飲むために食堂に行った。
私は精も根も尽き果てた気分になり、帰りの路線バスでは、
冷房の冷気が自分に直接あたるように吹き出し口の角度を調節し、
思い切り体を冷やして、元気を回復した。
冷え性を自認していた私にはあるまじきことだが、
1時間ほど頭からキンキンに冷やし続け、ウトウトと休息し、
バスを降りる頃、ようやく人心地がついた。

帰り道に、血圧の定期受診があったので、いつもの内科にも寄った。
診察室での血圧は、135/95という、訳のわからない数字だった。

一日で、市街地―実家の村、を二往復、父の通院介助つき。
ともあれ、終わったorz
今週はこのあと、ちょっと、休暇を貰う。

Trackback ( 0 )