転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



詳細はまた後日書きたいと思うが、きょうは、某・進学塾の、
保護者向け中学入試説明会に行って来た。
他の塾の例と同じく、ここに入るためには入塾テストがあり、
受からずに幾度も受け直す生徒さんも結構いるとのことで、
『入試以前に予備校に入れないっつーことがある訳だね(^^ゞ』、
と私は早くも感心してしまった。

そのテストの範囲は、内部生とは別の基準を設けているので、
学年を超えた問題などは出さず、
「どの学校でも必ず習っているところ」から出題されるそうなのだが、
となると、初めて入塾テストを受ける子供にとっては、
必ずしも「今習っているところ」から出るとは限らない訳で、
以前習ってもうすっかり忘れてしまった単元だということもあり得る。
ので、「上」「下」二冊の教科書なら「上」のほうも見ておくように、
という説明があった。

なるほど~~。

私は家に帰って早速、娘に教科書を持って来させた。
娘の算数の教科書は、学年途中だというのに、既にぼろぼろだった。
勿論、そんなになるほどしゃにむに勉強したということなどではなく、
ただ単に、娘の物品の扱い方がザツい、というだけのことだった。

今時の教科書らしくカラフルで、表紙には何か、マスコットのような、
黄色いキャラクターの絵が描いてあった。
よく見ると、そのキャラの額には、娘の字で、



と書き入れてあった。

私「キン肉マンか?全然、似ていないが・・・」
娘「のん、のん。ニン肉マンって言うんだよ」
私「そう言うのか、これ?」
娘「あたしが名付けたの」

こいつ、きっと入塾テストを百回受けるだろう、と私は思った(--#)。

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(これは、既に十五年以上に渡って参加している、ある種の同人誌に、先日書かせて貰った原稿なのだが、自分の記録としても残しておきたいと思うので、ここにUPしておく)

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フー・ツォン(傅聰 Fou Ts'ong)再発見

2004年に関して、音楽の面で私にとって最も重要な出来事のひとつは、フー・ツォン(傅聰 Fou Ts'ong)を再発見したことでした。

以前から私はこの人の演奏が好きで、レコードも持っていましたし、リサイタルに行ったこともあったのですが、2003年になってイギリスのメリディアンという会社が、フー・ツォンのCDを復刻してくれたお陰で、以前は持っていなかったスカルラッティやヘンデルの演奏まで、新たに手に入れることが出来たのです。

正確に言うとメリディアンは日本の代理店がないので入手は困難だったのですが、2004年の後半になって、私はふとしたことからインターネットでCD輸入代行専門のサイトをみつけ、そこから、フー・ツォンの各種CDを取り寄せることが可能になったのでした。今になってこのような巡り会いがあろうとは、全く、予想もしていなかったことでした(現在、日本ではフー・ツォンの国内盤CDはひとつもありません)。

フー・ツォンは、1934年上海生まれ。母国での苦学ののちポーランドに学び、アシュケナージが第2位となった第5回ショパン・コンクールで、第3位を取ってアジア人初の本選入賞者となり、その後はユーディ・メニューインの娘婿に迎えられて更に演奏活動の場を広げ、日本でも幾度か演奏会を行っているという、中国系イギリス国籍のピアニストです。彼は70歳になる今も現役の演奏家であり、最近でも、マルタ・アルゲリッチの主宰する、別府アルゲリッチ音楽祭にたびたび出演し、日本へ来て演奏会や公開レッスン等を行っています。

私の、彼との出会いは、80年に発売されたショパン「夜想曲全集」のレコードで、当時高校生だった私は、それまで知っていたアルゲリッチやポリーニの演奏とは全く違う、地味な輝きを放つフー・ツォンに、非常に心惹かれたものでした。ただその頃は、フー・ツォンの何が他の演奏家と違うのか、私にははっきりとはわかりませんでした。が、今回、前述のメリディアン復刻盤で、スカルラッティ、ヘンデル、バッハ、モーツァルト、ショパン、ドビュッシーなど、思いがけず多岐にわたる内容の録音を聞くことが叶い、私はそれらの中に、何か名状しがたい「一貫した流れ」を感じたのです。私がずっと惹かれて来たものは、この、彼の、おそらくは個人的な、強い意志を秘めた主張なのだと思いました。

その「主張」の内容が何なのか、私は、フー・ツォンの父親が書いた「傅雷(フー・レイ)家書」の日本語訳「君よ弦外の音を聴け」(樹花舎)を読んだことで、少し、わかったような気がしています。この本もまた2004年になって発売されたもので、私にとってはCD復刻と併せてとても不思議な巡り合わせだと思われたのですが、これには、父親のフー・レイが、異国のフー・ツォンに宛てて書き送った手紙十二年分が翻訳されていて、私にとっては初めての、私人フー・ツォンの内面に迫る記録となっていました。

その中で父フー・レイは、中国人としての文化的思想的な土台を持つ人間が、ヨーロッパの音楽を演奏することの意味を、繰り返し語っています。フー・レイ自身、中国の資産階級に生まれ、パリに学んで、帰国後はフランス文学者として地位を得、翻訳でも活躍した人でしたので、分野は異なっても、息子の取り組む課題の大きさを深く理解し、中国人であるがゆえに初めて可能になる解釈について、独特の見解を展開したのでした。

私の感じていた独自の「一貫した流れ」は、多分、この彼ならではの拠り所、父から受け継いだ、中国人としての深い教養によるものだったのだと思います。西洋の作品を、東洋という「外側」から理解し、なおかつ、根元的な部分での共鳴を持って演奏したとき、その音楽がどれほど美しく人の心を打つものになるかということを、フー・ツォンは絶えず、体現して見せてくれていたのだと思うのです。加えて、中国人としての思想を持つフー・ツォンは、キリスト教的解釈からも完全に自由な存在であり、ヨーロッパの音楽から宗教的影響力を敢えて排除し、人間本来の声のみをそこに聞き取ろうとした点でも、独特の魅力を持っていたと思います。

フー・ツォンは1954年に上海を出発、ワルシャワに留学し、ショパン・コンクールで世に出た後、イギリスに亡命しました。文化大革命のさなか、中国へ戻って西洋音楽の演奏家であり続けることは困難であると、苦渋ののちの選択をした結果でした。周恩来の格別の計らいで、それでも父親との文通は途切れることなく、両親への仕送りも続けられましたが、66年、老いた両親は、蒋介石関連の品を所持していたかどで反逆者の疑いをかけられ、自宅で首を吊って自殺しました。

夫妻連名の遺書の中で両親は、「決して国家政権を転覆させようなどという意思を持ったことはない」としながらも、その無実の罪を晴らすことも出来ずに生きることは出来ない、ましてや「裏切り者のフー・ツォンを育てたというだけでも、人民に対しては死んでも償いきれない罪なのです!」と書き遺しました。フー・ツォンがその両親の死を知ったのは、この事件から二ヶ月も経ってからだったということです。

フー・ツォンがショパンに格別の思い入れを持ち、深い苦悩と悲劇性を持ってその作品を演奏する訳が、私には、改めて想像できるような気がしました。そして、以前、大倉山の神戸文化ホールでのリサイタルに行ったとき、開演前、ステージの奥にあるらしいピアノで、フー・ツォンが、ショパンのエチュード作品25-6を、繰り返し繰り返し、弾いていたことが、とても鮮やかに、思い出されました。

今年は出来ることならもう一度、彼の演奏会を聴いてみたいと、強く願っています。

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