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2009-05-20 | 投稿・投書・私の意見

志位書簡に米政府から返書

核廃絶への「情熱うれしく思う」

志位氏「非核への世論と運動に力尽くす」


 日本共産党の志位和夫委員長は十九日、国会内で記者会見し、核兵器廃絶にむけたイニシアチブを求め、四月末にオバマ米大統領へ送った書簡に対し、米政府から返書が届いたことを発表しました。会見での冒頭発言は次のとおりです。


真剣な姿勢と熱意示すもの

写真

(写真)記者会見する志位和夫委員長=19日、国会内

 私は、四月二十八日に、米国オバマ大統領に、核兵器廃絶へのイニシアチブを要請する書簡を送りましたが、この書簡に対する米国政府の返書が、この 間、届けられたので公表します。返書は、オバマ大統領が、グリン・T・デイビス国務次官補(代理)に指示し、次官補が大統領に代わって書いたものとなって います。

 英文の返書と私たちが翻訳した和文をお配りしますが、英文の返書でデイビス次官補の自筆の署名がされている部分については、個人情報を保護するために、発表にあたっては伏せさせていただきます。

 私の大統領あての書簡は、大統領のプラハでの「核兵器のない世界を追求する」という提起を歓迎する立場から、どうすればこの提起が生きて力を発揮するかについての私たちの考えと要請をのべたものでした。

 返書では、私が書簡のなかで、「大統領のプラハ演説についての感想」と、「どうすれば私たちが最良の方法で核兵器のない世界を実現できるかについ ての考えを伝えた」ことへの感謝が表明され、「この問題にたいするあなたの情熱をうれしく思う」との書簡への評価が書かれています。そして、「思慮に富ん だあなたの書簡に重ねてお礼を申し上げる」との言葉で結ばれています。

 こうした返書が、公式に送られてきたことは、オバマ大統領が核兵器廃絶に対して真剣な姿勢と熱意をもってのぞんでいることを示すものであり、私は歓迎したいと思います。

帰すう決めるのは世論と運動

 私が書簡で要請した二つの点――(1)核兵器廃絶を正面からの主題とした国際交渉を開始する(2)来年のNPT(核不拡散条約)再検討会議で、核 保有国が自国の核兵器の完全な廃絶を達成することを明確に約束する―という提起に対して、オバマ大統領が今後どういう具体的対応をとるかは、期待をもって 見守りたいと思います。

 この点で、五月五日、NPT再検討会議の準備委員会に、オバマ大統領が、メッセージを寄せ、「核兵器のない世界という平和と安全の追求」を改めて 訴え、「米国がNPTの約束を果たす」と表明したことは、ブッシュ前政権が核保有国の「約束」を否定したことからの前向きの転換の一歩であり、注目してい ます。

 核兵器問題の帰すうを決めるのは、世界諸国民の世論と運動にほかなりません。来年のNPT再検討会議にむけて、昨年の原水爆禁止世界大会がよびか けた、「すみやかに核兵器禁止・廃絶条約の交渉を開始し、締結する」ことを求める国際署名がとりくまれていますが、この署名運動をはじめとした核兵器廃絶 をめざす草の根の世論と運動が、世界各国で、わけても被爆国・日本でどれだけ広がるかが、決定的に重要です。わが党はそのために全力をつくす決意です。(会見での一問一答


米国政府の返書全文

 志位委員長の書簡に対する米国政府の返書全文は以下の通りです。

 親愛な志位様

 あなたの四月二十八日付の書簡で、オバマ大統領のプラハ演説についての感想と、どうすれば私たちが最良の方法で核兵器のない世界を実現できるかに ついての考えを伝えていただきました。大統領は、その書簡に感謝する返書を、大統領に代わってしたためるよう、私に指示しました。

 この問題にたいするあなたの情熱をうれしく思うとともに、私たちは、この目標に向かって具体的な前進をつくりだすために、日本政府との協力を望ん でいます。世界の国々が核不拡散条約の強化と、核兵器用の核分裂性物質生産禁止条約交渉の速やかな開始、包括的核実験禁止条約の発効を確約するならば、私 たちは認識を変え、核兵器のない世界に向けて新たな機運をつくることができます。

 思慮に富んだあなたの書簡に重ねてお礼を申し上げます。

敬具



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2009-05-20 | 投稿・投書・私の意見
京都・朝鮮文化ゆかりの史跡

                  
1、 赤山禅院(せきざんぜんいん)

 修学院離宮の北隣に位置する赤山禅院は、慈覚大師円仁の遺命によって創建された天台宗の寺院です。本尊の赤山明神の祖は中国の泰山府君だけではなく、新羅の神との説があります。円仁は唐留学のころ、山東半島赤山村の新羅坊(唐の沿岸地帯にあった新羅商人らの居住地)に8ヶ月滞在しました。赤山村には赤山法華院という新羅人による寺があり、ここに祀られていた赤山明神を円仁が請来したとされます。また赤山禅院には「金(こん)神社」という境内社があり、松尾・平野・賀茂・新羅など渡来系明神が祀られています。
ちなみに滋賀県の園城寺(三井寺)にも新羅明神を祀る新羅善神堂があります。
 京都市左京区修学院開根坊町   問い合わせ=赤山禅院075-701-5181


2、上賀茂神社(かみがもじんじゃ)
3、下鴨神社 (しもがもじんじゃ)

 現在は上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(鴨御祖神社)に分かれていますが、元々は一社で、平安遷都以前に上賀茂の地に創建されました。賀茂氏はもともと大和の葛城から山背(やましろ)へと移住してきた氏族で、山城の古代豪族で有名な秦氏とは深く関係し、賀茂社の創祀にも秦氏が関与したとされています。
 上賀茂神社のそばにある元社家町は、かつて200軒ほどの神職の屋敷があったとされ、風格の名残が感じられる名所です。また近くには野生群落のカキツバタで有名な上賀茂神社の摂社、大田神社があり、ゆったりとした散策が楽しめます。
 京都市北区上賀茂   問い合わせ=上賀茂神社075-781-0011


4、平野神社(ひらのじんじゃ)

 朝鮮ゆかりの今来神(いまきのかみ)・久度神(くどのかみ)ほか四神を祭神とする京都の古社です。桓武天皇の生母である高野新笠は百済武寧王の末裔とされる方ですが、山部親王(のちの桓武天皇)と高野新笠は、まず平城京で今来神を奉りました。久度神は高野新笠の父である和乙継(やまとのおとつぐ)らが祖先以来奉斎した神です。桓武天皇は即位早々にこれを京城へ移し、平安京造営の後には今来神を主神とする平野神社を現在の地に創建しました。
平安京の歴史と密接なつながりをもつ平野神社の本殿は、平野造としても有名です。
 京都市北区平野宮本町   問い合わせ=平野神社075-461-4450


5、 松尾大社(まつおたいしゃ)

 松尾大社は、大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が創建した古社です。その歴代の社家も明治初年まで秦氏によって守られてきました。松尾山を神体山とする信仰を前提に、葛野大堰を築造した秦氏が祭祀した神社です。秦氏は養蚕、機織とともに酒造の技術を伝えたことから、中世以降、松尾神は酒造の神として信仰されるようになりました。  京都市西京区嵐山宮町   問い合わせ=松尾大社075-871-5016


6、高野新笠陵墓(たかののにいがさりょうぼ)

 高野新笠(?-789)は光仁天皇の夫人で、桓武天皇の生母です。山背国乙訓郡大枝に渡来系氏族の和氏(やまとし)の子として生まれたこの女性の存在が、平城京から山背国への都移りにつながったともされます。父は百済国第25代武寧王を祖とする和乙継(やまとのおとつぐ)で、母は乙訓の有力氏族である土師(のちに大枝に改称)氏の娘、真妹(まいも)。桓武朝に都が長岡京、そして平安京へ移ったこと、そして渡来系氏族の出身者が多く高位に就いたことは、彼らの活躍と無関係ではないようです。
 京都市西京区大枝沓掛町伊勢講山


7、樫原廃寺(かたぎはらはいじ)

 発掘調査の結果、中門・塔・金堂・講堂などが一直線上に並ぶ伽藍配置であることが明確となりました。白鳳時代の創建で、特に八角形の瓦積みの塔基檀は高句麗の清岩里廃寺や定陵寺などに多くみられます。またその規模は大阪の四天王寺よりも大きく、全国的に価値の高い寺跡として国の史跡に指定されました。   京都市西京区樫原内垣外町


8、広隆寺(こうりゅうじ)

 日本の国宝指定第1号は、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像です。その姿は韓国の国宝第83号で現在ソウル国立中央博物館にある金銅弥勒思惟像ときわめて類似しているだけでなく、飛鳥時代の仏像としては稀な赤松で造られています。当時の日朝交流を考えると、朝鮮ゆかりの仏像であるといえます。秦河勝が創建した秦公寺(蜂岡寺、秦寺)が広隆寺の前身ですが、新羅系渡来氏族である秦氏の活躍は、平安京の前史のみならず、平安京の造営にも大きく寄与しました。
 京都市右京区太秦蜂ヶ岡町   問い合わせ=広隆寺075-861-1461


9、蛇塚古墳(へびづかこふん)

 太秦の面影町の住宅地にある蛇塚は、京都府下における最大の巨石墳で、横穴式石室は全長17.8メートル余り。6世紀後半から7世紀初めに築造された古墳で、被葬者は秦氏の首長層と考えられます。嵯峨野の地には、蛇塚古墳を中心とした太秦地区のほかにも多くの古墳群があったとされます。        京都市右京区面影町


10、蚕の社(かいこのやしろ)

木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみむすび)神社内の養蚕(こかい)神社のことで、5世紀後半ころ、太秦に居住した秦氏により、養蚕と機織の技術が発展したことが伝えられています。       京都市右京区太秦森ヶ東町


11、葛野の大堰(かどののおおい)

観光名所の渡月橋付近は、朝鮮渡来氏族の秦氏と切り離すことができません。上流で堰(ダム)によって川がせき止められているところが「葛野の大堰」で、5世紀後半ころ、太秦一帯に移り住んだ秦氏が行った治水工事の跡です。この先進的な灌漑工事により、桂川下流域の平野では多くの水田が開発され、農耕が盛んになったとされます。保津川のこのあたりを「大堰川」と呼ぶのも、これに由来します。     嵐山渡月橋付近


12、清水寺(きよみずでら)

京都東山の有名な清水寺の開山堂は田村堂ともいい、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が祀られています。坂上田村麻呂(758-811)は桓武天皇代の征夷大将軍で「赤面黄鬚、勇力人に過ぐ」とされる人物ですが、応神天皇のころに渡来した百済の阿知使主(あちのおおみ)を祖とします。坂上氏の本拠地は大和国高市郡桧前(ひのくま)、つまり東漢氏(やまとのあやし)が繁栄した地域とされる今来郡(いまきのこおり)です。ちなみに今来とは「新しい技術を担った人々」という意味で、渡来人たちの里ともいえます。
 京都市東山区清水一丁目   問い合わせ=075-551-1234

13、八坂神社(やさかじんじゃ)

 祇園祭で名高い祇園さんは、その由来をさかのぼれば、高句麗系の八坂造およびその集団を中心とする八坂郷と深い関係があります。法観寺の八坂の塔や八坂郷のいにしえにも、京都の中の朝鮮文化の面影が偲ばれます。

 古代氏族の系譜を集成した『新撰姓氏録』では、八坂造の祖として狛(こま=高麗)、つまり高句麗人の名前を挙げています。八坂一帯は高句麗系氏族が勢力を振るった地で、その祖先神を祀るために神社を創建したといえます。
 京都市東山区祇園     問い合わせ=八坂神社075-561-6155


14、耳塚(みみづか)

 京都国立博物館の近くには豊臣秀吉ゆかりの方広寺があり、その大仏殿の正面から西へまっすぐに向かうと、南側に土を高く盛り上げた塚があります。これが耳塚(鼻塚)です。秀吉が起こした文禄慶長の役 (1592~1598)の時、秀吉は戦乱で殺傷した朝鮮軍兵士の数を確認するため、諸将らに彼らの鼻や耳を樽で塩漬けにして持ち帰るよう命じました。
 これを供養するため1597年に塚が築かれ、今日まで管理されています。
 京都市東山区正面本町東入る
 

15、伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)

 稲荷山を神体山とする信仰を背景に、8世紀の初め(和銅年間)に秦伊呂巨が創建した社です。全国の稲荷社の総本社ともいうべきこの神社の社家は、代々秦氏によって受け継がれてきました。毎年11月8 日のお火焚き祭では、宮中神楽の「韓神」が奏されますが、この韓神招ぎの神楽も、日本のなかの朝鮮文化を象徴する神事芸能です。

 京都市伏見区深草     問い合わせ=伏見稲荷大社075-641-7331


  ( 主な15箇所を紹介します。
       京都には、朝鮮通信使関連の史跡も多くあります。)


              高麗博物館の資料を参考に作成しました。