羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

49年前のおくりびと?

2009年04月11日 08時49分10秒 | Weblog
 わけあって小学校二年のときに、目白の川村学園に編入した。
 編入試験の際に、川村文子先生にはじめてお目にかかった。
 学校の敷地に隣接して、お住まいがあった。
 玄関から入って右側の応接間だったと記憶している。
 椅子には白いカバーが掛けられていて、スチーム暖房が効いていた。
 部屋に入っていらっしゃった園長先生は、そのときすでにかなりご高齢だった。

 それから4年目、5年生の時のある日、担任の先生に呼ばれていくと、音楽クラブのメンバーが集められて、文子先生のご自宅へと連れて行かれた。
 庭に一列に並ぶと、カーテンが開けられ、廊下の向こうの部屋にあるベットに横たわる文子先生を認めた。
 音楽の先生に促されてお辞儀をし‘感謝の歌’を斉唱した。
 この歌は朝礼時に‘誓いの言葉’とともに、毎朝、全員で歌っている。
 文子先生がおつくりになった、と聞いていた。

 それからご遺体が荼毘にふされる日、ご自宅を出られる際にも、音楽クラブのメンバーが一列に並んで‘感謝の歌’を歌いながらお見送りをした。
 
 さらに学園葬の神道によるお別れの儀の日も、同じメンバーが講堂に設えられた祭壇下に控えて、‘感謝の歌’を歌った。
 このときは雅楽の演奏もあって、楽人のそばに位置していたと記憶している。
 歌い終わってから、順番に祭壇手前の‘示(神様の前におかれる台)’に、榊を献辞し音をたてずに拍手を打った。
 この日、弔問客が目白駅近くまで列をなした、と聞いている。

 昨日、50年ちかく前のこの記憶が甦って、夕飯のあとのお茶をすすりながら、母に聞いてもらった。
「音楽クラブの生徒たちが、文子先生をいちばん近いところで、お送りしたの」
「あ~た(あなた)‘おくりびと’だったのね!」
 思わず母の顔を見ながら、膝を打った。
 たしかに‘おくりびと’っていえるかも。
 
 ところで、映画はまだまだ上映が続いているようだ。
コメント
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