留守にしている間に宅配荷物が届けられて、配達記録が残される。
最近では、電話をかけると‘自動音声ガイド’に従って、電話機のキーボードを操作して再度の配達を予約するようになった。
とくに郵便局のそれは、幾つもの手順を踏まなければならない。
紙の文字も小さいところもあって高齢者には大変だろうと思った。
先日、たまたま留守になったときに配達記録が残されていた。
そこでガイドに従って手続きをした。
翌朝、配達されたときに配達員の人と話をした。
「実は、この自動音声応答式は不評なんですわ。でも全国組織でやっているので、今のところどうにも打つ手がありません。で、配達しても一回で配達記録を残すのではなく、もう一回まわってきて、それでも留守なら残していくようにしているんです。若い人からも苦情はきますね」
公共施設の予約もこの方式が増えてきた。
どっちもどっちだが、インターネットのホームページから入っていくものと併用されている。
ものの本によると、1983年パソコンやワープロ普及の口火を切ったのがNECらしい。
それから26年後、日本がここまでこうした状況になると、どれほどの人が想像できただろうか。
実は、今週の火曜日のことだった。
ブログ‘芭瑠庵’(4月4日)に掲載されていた写真の場所を偶然に見つけた。
まさか、こんなところを撮影したのか? いてもたってもいられず、iPhoneのSafariからこのブログを呼び出して確かめてみた。
iTunesで音楽を同期したときに、私のパソコンに入っている情報がそっくりそのまま移されていることを思い出したからだ。
‘お気に入り’にある‘芭瑠庵’を呼び出すのは簡単なことだった。
これとて携帯電話でインターネットを使うようにするのは、パソコンより手間要らずで出来てしまう。
因みに、写真は朝日カルチャーセンター4階で撮られたものだった。
何も飾られていないときのフックと細いワイヤーが何本も吊り下げられている展示用ウインドウというわけ。
そのことが確認できたときに感じた嬉しい気持ちにオドロカされてしまった。
自宅に戻ってから確かめるのではなく、そこにいながらにして、片手に携帯を持って見比べられることに感動している自分がいたことにである。
言いたかったことは、ITの日常化はこの数年にスピードをあげて進化したこと。
便利だ、と感じること。不便だ、と感じること。慣れてしまえば何のことはない、と感じること。もう逃げられない、と諦めてやるしかない?
日常がシャッフル幻想のなかで、いつのまにかバーチャルな日常にすりかわっても、その境目がわからないまま生きていくのはなんともはや……。
刺激の強さを連続的に変化させて、私のなかの反応の限界の閾値がますます強烈な設定を求めるようになることだけは何としても避けたいもの、と思いつつも難しそう。
あな おそろしや! おそろしや!
最近では、電話をかけると‘自動音声ガイド’に従って、電話機のキーボードを操作して再度の配達を予約するようになった。
とくに郵便局のそれは、幾つもの手順を踏まなければならない。
紙の文字も小さいところもあって高齢者には大変だろうと思った。
先日、たまたま留守になったときに配達記録が残されていた。
そこでガイドに従って手続きをした。
翌朝、配達されたときに配達員の人と話をした。
「実は、この自動音声応答式は不評なんですわ。でも全国組織でやっているので、今のところどうにも打つ手がありません。で、配達しても一回で配達記録を残すのではなく、もう一回まわってきて、それでも留守なら残していくようにしているんです。若い人からも苦情はきますね」
公共施設の予約もこの方式が増えてきた。
どっちもどっちだが、インターネットのホームページから入っていくものと併用されている。
ものの本によると、1983年パソコンやワープロ普及の口火を切ったのがNECらしい。
それから26年後、日本がここまでこうした状況になると、どれほどの人が想像できただろうか。
実は、今週の火曜日のことだった。
ブログ‘芭瑠庵’(4月4日)に掲載されていた写真の場所を偶然に見つけた。
まさか、こんなところを撮影したのか? いてもたってもいられず、iPhoneのSafariからこのブログを呼び出して確かめてみた。
iTunesで音楽を同期したときに、私のパソコンに入っている情報がそっくりそのまま移されていることを思い出したからだ。
‘お気に入り’にある‘芭瑠庵’を呼び出すのは簡単なことだった。
これとて携帯電話でインターネットを使うようにするのは、パソコンより手間要らずで出来てしまう。
因みに、写真は朝日カルチャーセンター4階で撮られたものだった。
何も飾られていないときのフックと細いワイヤーが何本も吊り下げられている展示用ウインドウというわけ。
そのことが確認できたときに感じた嬉しい気持ちにオドロカされてしまった。
自宅に戻ってから確かめるのではなく、そこにいながらにして、片手に携帯を持って見比べられることに感動している自分がいたことにである。
言いたかったことは、ITの日常化はこの数年にスピードをあげて進化したこと。
便利だ、と感じること。不便だ、と感じること。慣れてしまえば何のことはない、と感じること。もう逃げられない、と諦めてやるしかない?
日常がシャッフル幻想のなかで、いつのまにかバーチャルな日常にすりかわっても、その境目がわからないまま生きていくのはなんともはや……。
刺激の強さを連続的に変化させて、私のなかの反応の限界の閾値がますます強烈な設定を求めるようになることだけは何としても避けたいもの、と思いつつも難しそう。
あな おそろしや! おそろしや!