羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

身体文化を社会に根づかせるには……

2009年04月13日 18時23分57秒 | Weblog
 文化はもともとガラパゴス的進化を遂げることで、真価を発揮することが出来る。
 そのことは遅かれ早かれ、「好きか嫌いか」あるいは「肌が合うか合わないか」といったひとり一人の好みの問題に帰着しそうだ。

 正直な感想を書かせていただけば、野口体操も野口の晩年には相当程度煮詰まって、濃厚なスープの味わいになっていたと思う。
 前の言い方を借りれば、ガラパゴス的進化状態にあった。

 もともと‘ガラパゴス的進化’とは、日本の携帯電話が微に入り細にいる工夫が過ぎて、グローバルな貿易相手が少なくなった、と新聞に書かれていて、そこで使われた表現だった。
 その記事を読んで以来、すごく気に入って、ときどき使わせてもらっている。
 島の文化にかぎらず、ある地域の中で芳醇な香りを醸すまで育て上げられた文化は、グローバル化やスタンダードとは対極にある。

 ところがこの対極にある出来事を、見事に同化させた音楽家がいる。
 二人だけ挙げれば、ショパンもリストも、苦労をしながら作品として残していく。
 ポーランドが生み育てた民族音楽、ハンガリーが生み育てた民俗音楽やジプシー音楽を、ヨーロッパの音楽技法によって如何に表現するのか、が彼らの生涯をかけた作曲創造の基点だった。
 ドイツ、ハプスブルグ、フランス、そしてロシアの脅威に晒されている国々の民族は、自国の言語・文化だけでは生き残れない。
 そこで、大国の文化を身につけ、たとえば作曲家は創造活動にいそしむ運命におかれた。

 西洋のクラシック音楽技法をたとえてみれば、EUの通貨‘ユーロ’のような働きを持っていると考えられる。
 ヨーロッパは分裂する方向と統一する方向と、二つの波を交互に繰り返して時代を潜り抜けてきた。

 音楽家に限るならば、彼らはEUにおけるスタンダード技法を纏って自国の文化をそこに反映させることで、音楽文化の豊かさを作り出していたといっても過言ではない。
 生き残るためにしたたかだったと言わざるを得ない。

 さて、野口体操に重ねてみる。
 ガラパゴス的進化を遂げた身体文化としての‘野口体操’を、如何に残していくのか。
 ここが思案のしどころである。

 最近になって何人かの方に語っているのだが「大学の体育教科のなかで野口体操を伝え、体育教員つまり先生方と接する場に自分がいるのは神様の采配だ、と思うようになった」と。
 従来の学校体育も真面目に受けることなく、26歳の時に野口体操に出会って以来、‘これしか知らない’と言って憚らない私だ。
 西洋的な体育・スポーツ、日本の武道、そのほか流行の身体技法やリハビリテーション等々、そうした指導者と接することは、日本を出て外国から自国の文化を見直す行為に似ている、と思えるからだ。

 野口が身をおいていた大学の体育世界での経験と同質のものを知ることができている私の立ち位置は、非常に貴重な体験であり経験であると思える。
 八年目の新学期を迎え、驚きのなかにいる。
 
 それに先立って4月4日に行った「身体サミット」で、友好的な‘他流試合’をしたことで、野口体操とはいかなるものかが、私のなかで鮮明になっただけでなく、参加してくださった方々にも明確に捉えるきっかけになりえたようだった。
 実際に、そのような感想が、メールや電話や相対で伝えられている。
 
 二十年以上も‘野口体操・命’だった私が、この八年の時間のなかで、いつの間にか野口体操を相対化して見ることが出来るようになったことの意味をしっかりおさえておきたい。
 繰り返すが、これが神の采配でなくて何だろう。

 そこから出発して、考えを拡げてみる。
 野口体操に限らず、身体文化が社会的に浸透しつつある流れを止めず、さらに深いものにするには、何が大切なのか、まだ答えは出ない。
 しかし、避けて通ってはいけない問題だと捉えている。

 まずは、興味を持つかたがたと一緒に探っていくことが出来たらいい、と思う新学期の始まりである。
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