羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

それにしても国語の授業?

2006年09月26日 19時11分06秒 | Weblog
 朝日カルチャーセンター・火曜日講座は、梅雨明け前から始まった。
 3ヶ月は長かったともいえるし、あっという間だったような気もしている。
 ひとつの試みとして『原初生命体としての人間』三笠書房版の第三章―息と「生き」の中から、“生き方と息方”を中心に、呼吸の問題を扱った。
 なにやら国語の授業のような錯覚にとらわれる準備をしていった。
 各自が足元に本を置いて、体操したり、読書をしたり、そういったあり方も可能なのだということを教えられた貴重な一夏だった。

 野口三千三先生の「もの・こと」の解釈、「原初生命体感覚」といったキーワードが、この章でもしっかり押させておく必要があった。結局は、他の章も読み合わせることもあったりして、私自身が新しくこの『原初生命体としての人間』を読むことが出来た実感が得られた。

 高校生のころ、現代国語の先生に言われたことがある。
「ひとつの本を、10代・20代・30代・……50・60代になっても、読み返すことをすすめます。読み方は年齢とともに深くなりますから。そうならないようなら、あなたの生き方にどこか欠けているものがあるとおもった方がいいです」

 なるほど野口体操をはじめて、しばらくしてからこの本を読んだのだが、今回はまったく読みが変化していた。理解できなかったところがわかるようになっているとか、気づかなかった細かい表現の意味とか、時間の経過のなかで体験し経験したことによって、はじめて新たな読みが可能になることを知ることができた。

 火曜日のクラスは、はじめて野口体操を経験される方が多かったこともあって、レクチャーと実践を通したレッスンを受け入れてくださるいいクラスだった。
 ときにはレクチャーが長くなって、ほとんど動くことが少なくなった日もあったことを記憶している。

 そして今日は、7月期最後のレッスンが無事に終わった。
 視覚的・聴覚的・触覚的に「重さ」を実感することをテーマに、動きを中心にレッスンをまとめたつもりだ。
 皆さんの動きを見ていると、本を読む過程で遠回りししすぎたかなという思いが、きれいに払拭された。つまり、動きの質そのものが、いい方向に変化してくださっていたからだ。

 からだの動きと言葉をフィードバックさせながら、野口体操を学ぶ(この言葉がぴったりのクラスだったのだが)ことの意味をしっかり実感させていただいた。

 「もの・ことば・うごき」の微妙な関係のなかで、自分のからだと向き合う意味をそれぞれの方が、それぞれに実感していただけた3ヶ月のようだった。
 ある年齢になって新しくからだの動きを身につけるには、それまでの身体についた何某かの「価値観」をまず払拭する必要がある。そこで生まれ変わった真っ白な身体という名のキャンバスに、新しい動きを描き出すには、言葉がもつ力が非常に大きな意味を持つ。

 ひとつ難しい問題を提示させていただく。
 それは、野口体操の前に何か身体技法を体験している場合だ。
 真っ白なキャンバスといっても、すべてを短時間でぬぐうことはできない。時間は必要だ。
 そして野口体操を教えようとすると、ほかの身体系のものと混ざり合ってしまうことがある。
 この問題は一生ついて回る問題だという認識を持つことだけでも、教え方に変化が出るものと期待したい。その逆の場合ものある。

「野口三千三にもっと早く出会いたかった」
 この言葉は、野口三千三先生、自らが発した言葉だ。
 マッチョなからだ、人並みはずれた運動能力、そして運動の原理をつかむ直観力、加えて他者に伝える論理的言語能力、ユーモア、理屈だけでおさない思考の柔軟性、動きを実際のからだに覚えさせる練習の工夫等々。すべてを身につけていらっしゃった野口三千三先生にして「もっとはやく出会いたかった」という嘆息をつかれていた。ある年齢になってから革める「からだの問題」の難しさを感じている。
 
 それにしても国語の授業かとおもいたくなるレッスンのあり方も、なかなかにいいものだ、とおもうのは私だけなのだろうか?
コメント
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