羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

念の一字

2006年09月28日 19時35分35秒 | Weblog
 東京藝術大学の定年は、国立大学の中でいちばん遅い。
 67歳をもって退官することになる。
 野口三千三先生は、昭和24年・35歳で着任して32年間、勤め上げた。
 そして83歳でなくなるまで、野口体操の指導一筋にいきておられた。

 これは大変なことだとおもう。
 大学生というのは、18・9歳から20代前半、藝大の場合は浪人して入学する学生もいるので、一般大学よりも年齢が高い学生もいたりする。
 それにしても60代になれば孫の世代である。
 血気盛んな若者を相手に、自ら動き話をしながら授業を行うのは、相当なエネルギーを必要とする。気力だけではどうにもならないものがある。

 このようなことを感じるのは、大学の授業を終わって、帰途に着いたときだ。
 駅の階段を昇り、電車に乗ったとき、つくづくおもう。

 2コマ続きの授業など、どうしても後のコマのほうが、滑らかに授業が進む。
 無意識のうちに前のクラスで違和感があったり、うまく伝わらなかったり、話の流れが今ひとつだったりすることを、敏感に感じ取るらしい。そこで、2コマ目には、そうしようと意識的に行わなくても、自然に軌道修正をしていることに気づく。

 5年間大学の授業を行ってきて、毎年、新しい感じがする。慣れることはある。しかし、野口体操を伝える行為は、マンネリズムに陥ることはないようだ。人から人に伝えていく行為というものは、百人の人に出会えば、百の新しい出会いがある。その出会いによって、新しい伝え方の軌跡がそのつど生まれてくる。同じ授業というのは、まったくありえないところが、面白い。
 これは大学の授業だけではない。年齢もさまざま職業もさまざまな集まりであっても、同じことを経験する。
 その意味では、毎回、一期一会なのである。

 野口三千三先生の晩年は、レッスンすることを楽しまれておられた。全身全霊を傾けて、授業・レッスンに望まれた。
 私は、今、57歳。まだまだ先は長い。サステナブルとは、私自身の問題である。野口体操を伝えるのに、持続可能な期間の命がどこまで可能だろうか。時々、そんなことを電車の中でおもう。

 授業が終わると、ずっしりとからだの重さを感じたりする。充実感がある。反省もある。すると「来週は、○○しよう!」と、次の授業のイメージが浮かんでくる。

「羽鳥さんの後継者は?」
 その条件は、ありすぎて困る。
 とにかく10本の指では、間に合わないかもしれない。
 ある方に話をした。
「胃も痛くなってもしかたないですね。でもまだ57歳でしょ。あせらなくても……」
 またある方は言う。
「一日にして指導者になれるわけではないし、10年~20年の歳月はいるのだから、はやいところ出てきてくれないと」

 こればかりは強引に誰かを連れてくるわけにはいかないなぁ~。
 そうそう、柏樹社が潰れて、野口体操関係の本が巷から一切消えてしまったとき、ひたすらに祈った。
 するとどうでしょう。
「春秋社から、本を出しませんか」
 メールが入ったのだ。おかげさまで現在、春秋社から著書がそろって出版されている。

「念ずれば花ひらく」ことを信じて、念ずることに決めた。
 しばらくは「念」の一字を懐に入れて授業に臨んでいる。
 こうして、若い方と過ごす授業が始まったら、あれほど不調だった胃は、すっかりよくなった。
 今日も、若さに元気をいただいて帰宅した。
 
 ご心配をかけました。
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