羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「NHK日曜美術館30年展」 魔性の絵 

2006年09月12日 19時29分41秒 | Weblog
 今朝のことである。
 朝日カルチャー・火曜日のクラスで、始まる前から「田中一村」の絵の話で盛り上がっていた。私が持参した「NHK日曜日美術館30年展」の分厚く重い解説書兼図録を囲んでの出来事だった。
 
 一村の絵にそれほど人気があるとは知らなかった。いやいや、野口体操に興味をもつ感性に、一村の絵が放つ色や形や匂いに、通じる何かがあるのかしら……なんて想ったりもして。

 奄美に暮らし、亜熱帯の自然を描いた独特の画風は、「ヨーロッパのある有名画家よりも好きだ」と言ってしまったら同感という表情が見受けられた。

 盛り上がった話のなかに加わっておられた方は、お母さんが沖縄出身。一村を知っているという。「そばによっちゃいけないよ」というような見られ方をしていたことを彼女に話して聞かせたらしい。
 何処からか流れてきて、破れたシャツに草履をつっかけ、自然のなかに分け入る。彼自身の良心を納得させるために奄美の自然を描き出すのだから、周りの人の目など気にとめなかっただろう。それだけではない。絵を描くことに己の命を懸けた一村である。

 日本画でありながら日本画を超えた宇宙観を画布に描きだす画家・一村は、亜熱帯という自然に出会えたことによって、より一層、彼自身の才能を開花させることが可能になったのだろう。

 展覧会場で、実際の絵から受けるのは、亜熱帯の熱は冷やされ、一瞬の時間が止められ、生きとし生けるものの命が抜かれ、そのものがもついちばん美しい瞬時の姿を、鋳型として写しとってきたような印象である。それが、なんともいえない快感を、呼び起こす。
 
 執着しながら執着しない。捨てながら捨てない。
 亜熱帯ならぬ「亜美領域」に、ぎりぎり踏みとどまって描き出された絵は、見るものを非日常へと容易に誘い出してくれる。その誘う力は、奄美の自然を借景しながら、息をひそめ・息を殺して、じっと自然の威力をみつめる真摯な画家の孤独な生そのものが描かれているからかもしれない。
 人としてのあふれ出す情熱を、ひとりの冷静な画家の魂がなだめすかす。
 そのすかし加減がシュールなのだ。

 魔性のない芸術ほど面白くないものはない。
 田中一村が描いた絵には、にくいほど魔性が宿っている。
コメント (1)
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