羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

造化にしたがひて四時を友とす

2006年09月15日 20時30分02秒 | Weblog
 涼しくなった。
 今日は、午後からたっぷり時間をとって、図書館に入り浸った。
 おかげで調べがほとんどついた。
 アマゾンで古本を落札してもよかったのかもしれないが、図書館で本を選びながら、調べることにした。正解だった。

 天地自然にのっとり、天地自然に帰一せよ。
 風羅坊芭蕉の『笈の小文』を調べに行った。
 あの有名な書き出し「百骸九竅の中に物有。かりに名付けて風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。……」
 また、こうも云う。
「造花にしたがい、造花にかへれとなり」
「造花」とは、老荘思想における造花をさす。「造花」は、「造化」。つまり万物を創造化育(天地自然が万物を生じ育てること)するもの。神または自然。
 
   旧里や臍の緒に泣くとしの暮

 芭蕉十三歳で失った父親の三十三回忌法要のために、故郷に戻った芭蕉が、兄から臍の緒を見せられて、さまざまな感慨が胸に迫って涙する年の暮れ。
「ふるさと」「臍の緒」「年の暮れ」とくれば、当然、来し方を振り返って感無量の芭蕉が、実体としての故郷に、天地一体・万物同根をストレートに詠んだ句。
 造花にむせび慟哭する芭蕉。御歳・四十四。春を迎えれば四十五になる。俳諧宗匠として認められ、暖かく迎えられた故郷であった。

 原稿にこの句を取り上げた。読み違いがないかを何冊かの本で調べたかったのだ。
 もうひとつ、「素直・素朴な感覚で天地自然の大本に遡って自然に貞く、つまり自然直伝」を基本姿勢とする野口体操と、相通ずるものを感じていたが、その点も確かめたかった。
 
 いずれにしても『笈の小文』冒頭の風雅観によって、「風雅の道」とは厳しいことを改めて知った。
 
 神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して
    旅人と我名よばれん初しぐれ

 貞享四年十月二十五日深川の庵を西へと出立した。
 ちなみに貞享四年とは、1687年、江戸前期である。
 
 それから七年後、「造化にしたがひて四時を友と」した芭蕉は、土に還っていった。

    旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
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ほんとうの柔らかさとは?

2006年09月14日 19時44分32秒 | Weblog
 今朝、テレビ朝日の報道番組を見ていた。
「シンクロ・ワールドカップ2006」を放送する関係から、総合司会者・松岡修造さんが出演していた。

 その場面で、マーメードの足が映し出された。
 床に前後開脚してみせている姿は、どこが硬いのかと思わせるくらいに開いていた。
 朝食の後片付けの合間に見ていたので、正確な記憶ではない。が、その彼女の悩みはからだが硬いこだという。特に脚の硬さが問題だと。
 そこで柔らかくするために、鍼をうつという。他のスポーツ選手もそうすることで柔らかさを得るらしい。解説とおもに、鍼灸師の男性が、マーメードの脚・膝頭の後ろに鍼を刺すシーンを映し出した。
 
 国際試合で「勝たねばならぬ」それも「優勝せねばならぬ」というだけで、硬くなることは必然。松岡さんも実際、シンクロ選手と一緒に水中にもぐって、いくつかの動きを試しておられた。
「ものすごく苦しいし、大変な競技だ。水中では、顔はぐちゃぐちゃだ。それが水面に上がった瞬間に笑顔になるんだから、それだけでもすごい」
 実感がこもった感想を、松岡さんが語った。
 硬くなって当たり前。人間だもの。そこで心理的プレッシャーをどう克服するのかということは、選ばれた一人一人が背負った永遠の課題だろうな、と思うことしきり。

 ニュースでしか見ていないが、骨折から立ち直った松井秀喜は、やっぱり凄い。
 リハビリ期間にいったいどのような訓練を行ったのだろう。
 心身一体となったベストの状態で、復帰、第一試合に向けて日々成長をとげたことが証明された。

 さて、私自身のからだの硬さの経験を書いておきたい。
 形の上でほぐれているかのように見えても、からだの芯が本当にほぐれるというのは、状況によって難しいことがある。いくつかの例を挙げてみると……
 野口三千三先生が緊急を要する発作に見舞われて救急車で病院へ、生死の境をさまよっておられた時。
 父が麻酔からさめて正常に戻りきらなくて、一日中、父に昔のことを思い出させながら、正常の覚醒状態を取り戻させた時。
 ICUで見かけた術後の赤ちゃんが、火がついたように泣き叫び、母親がそばでおろおろし、医者も何もできずに立ちすくみ、ベッドの上に吊り下げられている可愛らしいガラガラのおもちゃが虚しく見えた時。
 突発性難聴を患って、入院したその晩から数日間、からだにモーターの振動を感じて耳鳴りと身体揺動が一生続いたらどうしようという不安にかられた時。

 そうしたときには、からだは硬くなる一方で、ひとりになってほぐしても、ほぐれきれるものではない。
 病気や生死に関係したときが多いが、そのほかにも緊張が抜けずに、硬くなることはいくらでもある。
 
 あるとき思った。
「芯から、気持ちよくほぐれなくても、形だけでもほぐしておこう」
 ストレスを回避できないとわかったときに、逃げようとせず、甘んじて受ける。
時間をつくって体操だけはやっておく。形だけでも……と。

 それにしてもワールドカップがかかった競技のプレッシャーはいかばかりか。
 あふれんばかりの根性、精神力の強さだけでは乗り切れない。
 そこに「運」という人の能力を超えた大いなる力が働く。

 今夜、8時から、「フリーコンビネーション・決勝」がはじまる。
 一つ目のメダルがかかっている。
 そろそろ時間だ!
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フラット化する世界とローカルな文化

2006年09月13日 10時20分34秒 | Weblog
 最後の抵抗「携帯電話をもたない」が、今年の5月に崩れた。
 町から公衆電話が減ってしまった。そのことがいちばんの理由。
 そしてもうひとつ、仕事や友人との待ち合わせ方法が変わったことがある。
 ひとり携帯を持たない暮らしは、とうとう脅かされてしまったから。

 以前にもブログに書いたことがあるが、私自身、手書きからワープロに変わって、かれこれ20年近い年月が過ぎた。最初の機種は熟語変換もできず、ディスプレーに映し出される行数は、3~4行に過ぎなかった。
「僕は、活字が好きだよ。それにあなたの字は、小学生並だから、絶対、ワープロがいい」
 ワープロを使いはじめた当初、野口三千三先生のこう言った後押しもあって、勢いづいた。
 気がつくと、いつの間にか、手書きでは文章が綴れなくなっていた。
 実際、ここまで来ると、ピアノのキーボードが、ワープロのキーボードに置き変わっただけではない大変化がもたらされた。

 何時しかワードプロセッサーから、パーソナルコンピューターへ。最初はMacだった。メールを始めた当初ファックスもパソコンから送信していた。メール相手は、同世代にはあまりいなかたので、若者との交流が中心だった。当時は、まだまだ手紙と電話が優勢で、個人の間ではファックスがようやく使われ始めているような状況に過ぎなかった。
 
 1998年(平成10年)に、「野口体操公式ホームページ」を立ち上げて8年。
 振り返ると、この十数年の間に、ISDNにするためにプッシュ回線に変更し、ADSLのためダイアル回線に戻し、さらに昨年の改築で光ケーブルを入れた。ご丁寧にホーム・ランケーブルで、4箇所使用可能にしてみた。乗ってしまったこの数年の変化は、ものすごい勢いである。

 こうしてめまぐるしく変わる環境のなかで、携帯電話が最後に残っていた。これがいちばん使用頻度は少ない。来年は止めようかともおもっている。
 固定電話・ファックス専用電話・インターネット・郵便・宅配便、そして携帯電話である。
 見えない線につながれた生活を、何時、切り上げようか、などと考え始めている。
 そうはいっても仕事を続けている間は、すべて機能していることを日々実感しているから、止めることは難しそうだ。
 今のところ、追われている感じはしないから、まぁ、いいか、としている。

 先日、読み終わった本にこんなことが書かれていた。
 IT革命・世界のフラット化で、インドや中国の人々は、移民しなくてもイノベーションが可能になって、地域文化がしっかりと守られるようになったのだという。
 たとえば、発展途上国の若いエンジニアは宝くじが当たる確率でビザを取得し、やっとありつける職場は、凍えるような寒さのミネソタだとする。そこに移住することは、民族衣装を脱ぎ捨てること。慣れ親しんだ料理や音楽をあきらめること。大家族とはなれて孤独に暮すこと。
 ところが「世界のフラット化」によって、それらをせずに、生きられる道が開かれてきた。つまり、生まれ育った土地の文化を捨てて移住する必要がなくなったのだという。
 かりに故郷を離れて西欧諸国に暮すことを余儀なくされた発展途上国の人々も、世界のフラット化を利用して地域文化を守ることができると書かれていた。
 目が点になった!
 読み進むと、次には、こんなことが続く。
「オンラインで故国の新聞は読めるし、IP電話を使えばただ同然の料金で家族や友人と話をすることができる。…中略…。個別化の力は、均質化の力と拮抗していると思われる」
 書名は、『フラット化する世界』トーマス・フリードマン著 伏見威蕃訳 日本経済新聞社 である。
 ブログやGoogleは、インターネットに接続する個人にグローバルな競争力を与える力となったらしい。ビジネスの在り方がかわれば、当然、働き方もかわるということ。

 著者は言う。
「グローバリゼーションを通じてアメリカ化する力は、いまだになお強大である。…中略…。グローバリゼーションの結果として誰もがアメリカ人みたいにしゃべり、歌い、踊り、考えるようになるというのは、とうていありえないように思われる」
 ローカルのグローバル化が、グローバリゼーションと文化のアイデンティティー問題として浮上しているようだ。
 世界中にさまざまな文化をもった人々が拡散すれば、孤立集団をつなぎ合わせる、巨大なグローバル市場までお目見えするといわれると、なんだかクラクラしてくる。
「ローカルな文化、芸術形式、様式、料理、文学、映像、主張のグローバル化が促進され、ローカルなコンテンツがグローバル化する」
 世界のフラット化は、激しいアメリカ化には結びつかないと、著者は確信していると書く。

 帯には「子どもたちがインドや中国との競争に勝つためには、何が必要なのか。現代人すべての必読書」とあるが、子どもたちとは、まずアメリカの子どもたちを指している。それはそのまま先進国といわれる国々の子どもたちにも当てはまるらしい。
 
 ここが重要!
 フラットな世界では、IQ(知能指数)も重要だが、CQ(好奇心指数)とPQ(熱意指数)がもっと大きな意味をもつと指摘し、今の子どもたちには、勉強する熱意と発見の好奇心をどのように引き出していくのかが教育の課題になることを示唆している。
「独学するためのやる気」に欠かせない条件だという。

 なにやら野口三千三先生の姿勢が髣髴させられる。
「興味をもつことのできる能力を才能という」とおっしゃっていたではありませんか。
 
 ここ数年、大変革のウェーブは、津波となって押し寄せてきている。
 人生の後半生のターニングポイントギリギリ地点で、「まずは、遺書でも書こうか」と考えた一ヶ月前の私の思いは、うたかたの夢と化した。
 今日もこうして、朝からブログを書いている。
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「NHK日曜美術館30年展」 魔性の絵 

2006年09月12日 19時29分41秒 | Weblog
 今朝のことである。
 朝日カルチャー・火曜日のクラスで、始まる前から「田中一村」の絵の話で盛り上がっていた。私が持参した「NHK日曜日美術館30年展」の分厚く重い解説書兼図録を囲んでの出来事だった。
 
 一村の絵にそれほど人気があるとは知らなかった。いやいや、野口体操に興味をもつ感性に、一村の絵が放つ色や形や匂いに、通じる何かがあるのかしら……なんて想ったりもして。

 奄美に暮らし、亜熱帯の自然を描いた独特の画風は、「ヨーロッパのある有名画家よりも好きだ」と言ってしまったら同感という表情が見受けられた。

 盛り上がった話のなかに加わっておられた方は、お母さんが沖縄出身。一村を知っているという。「そばによっちゃいけないよ」というような見られ方をしていたことを彼女に話して聞かせたらしい。
 何処からか流れてきて、破れたシャツに草履をつっかけ、自然のなかに分け入る。彼自身の良心を納得させるために奄美の自然を描き出すのだから、周りの人の目など気にとめなかっただろう。それだけではない。絵を描くことに己の命を懸けた一村である。

 日本画でありながら日本画を超えた宇宙観を画布に描きだす画家・一村は、亜熱帯という自然に出会えたことによって、より一層、彼自身の才能を開花させることが可能になったのだろう。

 展覧会場で、実際の絵から受けるのは、亜熱帯の熱は冷やされ、一瞬の時間が止められ、生きとし生けるものの命が抜かれ、そのものがもついちばん美しい瞬時の姿を、鋳型として写しとってきたような印象である。それが、なんともいえない快感を、呼び起こす。
 
 執着しながら執着しない。捨てながら捨てない。
 亜熱帯ならぬ「亜美領域」に、ぎりぎり踏みとどまって描き出された絵は、見るものを非日常へと容易に誘い出してくれる。その誘う力は、奄美の自然を借景しながら、息をひそめ・息を殺して、じっと自然の威力をみつめる真摯な画家の孤独な生そのものが描かれているからかもしれない。
 人としてのあふれ出す情熱を、ひとりの冷静な画家の魂がなだめすかす。
 そのすかし加減がシュールなのだ。

 魔性のない芸術ほど面白くないものはない。
 田中一村が描いた絵には、にくいほど魔性が宿っている。
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町の音

2006年09月11日 16時52分03秒 | Weblog
 激しい雷雨が止むと、季節は一気に秋へと移り変わった。
 昨日までの蒸し暑さは、今はない。

 帰宅して、窓も襖も開け放し、風を二階の部屋いっぱいに取り入れている。
 隣家の軒先に吊るされている風鈴の音が、風と一緒に舞い込んでくる。
 この風鈴、真冬でもチリチリと音をたてる。台風が来た年も落ちずにすんだから、何年も同じところに下げられている。

 耳をそばだてていると、いろいろな音が断続的に入ってくる。
 学校から帰った筋向いの小学生の女の子が、「ママ、ママ、開けて」と叫んでいる。子どもたちの2学期もすっかり落ち着きを取り戻したのだろうか。

 染め抜きの旗を立てた「野口屋」のラッパは、一段といい音になった。
「トーーーーー、フーーーーーーー」
 息が続く限り伸ばして響かせていく。
 たとえ、何かを夢中でやっていても、気付かされる十分な長さがある。
「豆腐に揚げ~~、湯葉もありま~~~~~~すっ」
 最近では、大きな声を張り上げて、堂に入った物売りの声が町内に響き渡るようにもなった。

 この町は、ほとんどの銀行があり、スーパーマーケットもコンビニも多い。
 道は畦道がそのまま残された状態で、細くくねくね曲がっているので、車が入ってこられない。我が家でしばらく過す方は、驚かれる。都内でも数少なくなった商店街を一歩入っただけなのに、静かだということに気がつかれる。
 車が走れない細い道のよさである。

 ところで、土曜日の朝日カルチャーのレッスンで板書したのは、『原子力文化』9月号、石川英輔さんが連載されている「エントロピー 現代と江戸 第十五回」のなかから、エネルギー効率の劣等性というところをお借りした。
「現代産業が生み出す工業製品のほとんどは、基本的にはエネルギー効率の劣等性で、エントロピーをせっせと増大させている」とおっしゃる。
 誰でもが実感として持ちやすい自動車を例にあげている。
 
 たとえば、小型乗用車に乗って、1キロメートル進むとする。燃費が15キロメートル・1リットルの車の場合:1キロメートルに付き15分の1リットル=65ミリリットル消費する。エネルギーとしては600キロカロリー。燃費の大部分は、車体やエンジンを運ぶのに消費し、ひたすらエントロピーを燃やし続けている。小型車で約1トン。体重が50キログラムの人なら、自分の移動にガソリンはわずか3ミリリットル。あとの63ミリリットルは鋼鉄製の車そのものの移動に費やしている! と石川氏は書く。
 
 これを読むと、歩けるところはできるだけ自分の足で歩こうという気になる。歩くぶんには、道路は多少狭くても不都合は感じない。

 実は、駐車に関する条例が厳しくなったころからだろうか。このあたりを回る宅配業者は、小型のリヤカー風のものに品物を積み込んで配達している。それだけでも町が静かになったし、排気ガスが少なくなったことを実感する。

 戦後すぐの頃から出た話だが、未だに実現していない商店街の道路拡張。できることなら狭いままでいいいと願うのは無理というものなのだろうか。
 災害には弱いのかもしれないが、日常の暮らしには静かでいい。

 今日は、蝉の声がピタッと止んだ。
 今もまた……チリチリ…チリっと、風鈴の音が聞こえてきた。
 昨日までとうって変わって泣き声のようだ。暑さの中で元気があったのにねぇ~。
 風鈴の伴奏で、秋の虫が合唱をはじめたようだ。
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大人を夢中にさせる「遊動」とは?

2006年09月10日 13時45分25秒 | Weblog
「今日は、しっかり体操教室でしたね」
 朝日カルチャーセンター・土曜日クラスのレッスンが終わって廊下に出ると、待っていてくださった方のひとりに言われた。
 確かに、今日はハイピッチで動いた感が私自身にもあった。

 このクラスは、野口体操をはじめて20数年の方から、最近はじめられた方まで、経験はさまざまである。しかし、参加されるメンバーは変わっても、野口三千三先生時代の雰囲気が未だに残っている。

 9月に入ってからも、湿度の高さが続いていて、昨日の午後からの気温と湿度は真夏並みだった。しかし、からだは寒いよりほぐれやすい。そんなこともあって、逆立ちまで一気に動きが流れたように思う。
 
 とりわけ遊び観で、自分自身と、そして、他者とともに関係のなかで対話する動きに新発見があった。「上体のぶらさげ対話」をバリエーションしていくものに近いかな。でも、新種!

 没後9年目に入って、過去を思い返すと、ずいぶん遠くに歩いてきているのかもしれない。しかし、ちっとも変わらない感じがするのはなぜかしら、と自問している。
 
 7月期は、残り3回。
 実り多いレッスンになりますように。
 私が言うのもおかしいのかなぁ? と思いつつ。

 それにしても逆立ちの開放感は、どこから来るのだろう。
 野口体操の無理をしない・力まない・のびのび感を求める逆立ちの数々は、大人をして夢中にさせる不思議な魅力があることを、再確認した。
 野口体操の逆立ちは、まさに「遊動」そのものだ。
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「NHK日曜美術館30年展」つづき 音楽をフォーカスすると

2006年09月09日 08時41分37秒 | Weblog
「音楽で泣いているみたい」
 きたむらさんのブログ「健康誌デスク、ときどきギタリスト」に、そうコメントを書き入れたことがある。
 映画・テレビドラマ・演劇……、泣かされるのは音楽に負うところが大きい。

 昨日「NHK日曜美術館30年展」の話で、解説のない作品も、音声解説ガイドの音楽を流しながら見て歩いたと書いた。
その話をする前に、解説について書いておきたい。
 音声ガイドの解説は短い。しかし、どの作品に対するものにも、的をはずさない内容だった。
 それだけでなく、コメントの最後に、余韻を残す短い言葉が加えられている。
 たとえば樋口一葉の「たけくらべ」のような感じ。
「ある霜の朝水仙の作り花を格子門のそとより差し入れ置きし者ありけり……聞くともなしに伝へ聞くその明けの日は信如が何がしかの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ」
 決して一葉風の擬古文ではないが、こんな感じを抱かせる結びだった。
 そしていくつかの解説にあったBGMが、厳選されたものだった。

 そこで、全く関係のない作品をみながら、音声ガイドの音楽を聞いていたのだった。そのとき何故、解説の言葉が気にならなかったのか? どういうことかと後になって思い返してみた。
 解説の意味を理解しようとせずに、音楽の中に「声の楽器」として溶け込ませてしまう。ただし、解説をする女性の声と話し方が好かったからできたのだと思う。
この経験は、外国語のオペラを聞くときによくやっている。言葉のひとつひとつの意味はわからなくても、言葉の意味を超えて歌に魅せられるのでオペラを楽しむことができる。すると聞こえてくるのは、器楽曲に近づいてくる。10代のころ、この体験をずいぶんしてきた。
 
 その聞き方と似ていて、音楽のなかに声を溶け込ませると、逆に音楽がフォーカスされてくる。
 そこで、解説がない作品には、記憶していた音楽のうち、直感的に合うナンバーを打ち込んで、音楽を流しながら聞くと美術作品を感じる「感覚」に奥行きが加味されるってわけだ。

 突発性難聴を患ってからは、言葉を聞きたいときにBGMがあると、聴きづらく不快感を持つようになった。
 それ以前、ドラマなどでは、いい音楽が流れると、物語の筋を離れて音楽だけを聴いてしまう習性がもともとあった。今でもそうすることがたびたびあるのだが。

 そういえば、本だったか、雑誌だったか、忘れてしまったが、「ウォークマン」が出始めたころのこと。
「毎日、乗っている電車のなかで、自分の好きな音楽を聴いてみた。すると、見慣れた風景がまったく違って見えて驚いた。ウォークマンってすごい」ということを書いている人がいた。その人の名前も忘れてしまった。
 
 もうひとつ。
 野口三千三先生の「野口三千三授業記録」のビデオを編集するときに、映像に音楽をつけてもらった。最後に行う選曲は、楽しかったし、疲れきった感覚に心地よい風に乗った空気が流れ込む快感を味わっていた。あるとき、佐治嘉隆さんは、音楽をつける同じ映像に何種類かのBGMをのせたテストバージョンを作ってくださったことがあった。
 あくまでも主観に過ぎないのだけれど、思っていた曲や想像していた曲よりも、予想を超えて、思いがけない曲が映像に合うことがあった。

 がかなり逸れてきたので、話を戻そう。
 つまり、絵画・彫刻・陶芸といった作品を見るときに、自分の気分にあった音楽があると、違った味わいができるということを、昨日、体験したことを話したかった。
 静かな空間で純粋に作品と対峙する意味は、全く別の味わい方で、こちらの方が基本だと思っている。
 ただし、「日曜美術館30年展」という展示会は、テレビ媒体の作品と放送された内容がブラウン管(←死語になりつつある)から飛び出した空間だから、作品と音楽というマッチングがごく自然だったのかもしれない。
 これも新しい美術鑑賞の在り方のひとつだと思った。
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「NHK日曜美術館30年展」・東京藝大から寛永寺へ

2006年09月08日 20時19分07秒 | Weblog
 桃太郎だろうか。極彩色に塗られた大張りぼて? のお出迎え。
 芸大は、今日9月8日(金)から10日(日)まで、「芸祭」をやっている。
 美術学部の門を入ったところ。構内には若者に混じって、ご年配の方々の姿もたくさん見える。

 今日は、芸大に出かけた。「芸祭」がお目当てで出かけたわけではなかった。
 明日、9月9日からはじまる『日曜美術館30年展』開会式・内覧会の招待状をいただいたのだった。
 1976年4月に放送開始され、1500回を超えた長寿番組の歩みをたどるものだった。
 開会式にも立ちあった。テープカットのあと、オープニングの曲が流された。気分はしっかり「日曜美術館」である。ここは立体的に番組を楽しむ雰囲気が満ちていた。

 地下の会場から、すでに逸品をみることができる。
 とりわけ田中一村の絵は、どうしても見たかったもののひとつだが、それは3階の会場の最後に展示されている。
 
 今日は、こうした催しとしては、はじめて音声ガイドを聞きながら、ゆっくり見てまわった。
 作品解説のすべてではないが、BGMがはいっている。なかなかいい曲があった。そこで、解説のない作品では、気に入った曲を再生しながら見てまわった。
 音楽つきというのも、一興であることを知る。
「やっぱり、美術や音楽は好きだ」
 叫びたいくらいだった。
 こうしたときの心持をどのように表現したらいいのだろう。
 いつのまにか作品に吸い込まれる。作品の前で自分という存在も消えている。
 魂が抜かれてしまうような心地よさなのだ。
 
「日曜美術館」のファンの方は必見。

「NHK日曜美術館30年展」
 
 会場:東京藝術大学大学美術館(東京都台東区上野公園12-8)
 会期:2006年9月9日(土)~10月15日(日)
    開館時間 午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
    休館日 毎週月曜日(ただし9月18日・10月9日は開館)
 主催:東京藝術大学、NHK、NHKプロモーション
 後援:文化庁
 企画協力:NHKエデュケーショナル

 問い合わせ:東京藝術大学大学美術館
 電話:050-5525-2200
 ホームページアドレス:
 http://www.geidai.ac.jp/museum/

 帰りは寛永寺によって野口三千三先生のお墓参りをして鶯谷から電車に乗った。
 夏の終わりの墓所の趣もしっとりとして、歩くテンポはアダージョになってしまう。名残の蝉の声に耳を傾けながら、緑色濃い樹木を目にしていると野口先生の思い出が、走馬灯にようにくるくるとまわる。
 上野・鶯谷にくると、なぜか気持ちが落ち着く。
 こうした名品に出会い、日常を離れた時間をもてるのも、没後であっても先生からいただいた贈り物のような気がしている。

 昼間は蝉、夜はこおろぎ。虫の鳴く声は、芸術の秋のはじまりを告げているようだ。
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ピアノって素晴らしいわ!

2006年09月07日 16時02分17秒 | Weblog
 音楽とピアノに関する面白い記述を見つけた。
 昨日、9月6日日付:日経新聞夕刊「健やかスポーツ からだのお話」。 
「脱力・集中・リズムを養うー運動のセンス、ピアノ演奏で磨く」とあった。
 スポーツのなかでも野球やゴルフが、ピアノ演奏から得られる効果が高いらしい。
 どちらも勝負どころで力まない脱力が大切なスポーツだからという。
「技術もさることながら、日本人にもっと必要なプレーの独創性や発想力を磨くのにもいい。……感情を込めて演奏すれば右脳が刺激される。右脳が磨かれ創造性が豊かになる。……」とおっしゃるのは内科医にしてスケート選手・ピアニストという音楽とスポーツの関係に詳しい坂東浩医師の弁。

 ピアノ演奏に限らず、「勤労意欲や創造的思考に一番結びついているのは、音楽だ」という話もある。
『フラット化する世界―経済の大転換と人間の未来』トーマス・フリードマン著 伏見威蕃(いわん)訳 日本経済新聞社刊で見つけた話。
 とりわけ、クラシック音楽演奏は厳しい訓練がよく身につき、テーマやアイデアを新しいやり方で解釈して自分のものにする方法を教えてくれる、とある。(下巻93~94ページ)

 いいこと尽くめのピアノ演奏やクラシック音楽演奏の話だが、ピアノを専攻する人に、球技音痴は結構いたのにねぇ、なんて思いながら読んでしまった。
 
 そこで、ピアノの練習を思い出してみることにする。
 楽譜を読みながら左右の手は別々のことをしながら、耳で音楽を確かめて練習する過程はかなり「我慢強さ」が要求される。
 坂東医師がおっしゃるように、五感をフルに使う複雑な作業ということに間違いはない。とりわけ低音から高音まで、広い音域を出すことができるピアノは、オーケストラの代わりにもなる。したがって独奏曲でも指揮者の感覚が要求される。
 
 連弾もいいが、二台のピアノでコンチェルトは楽しい。
 ピアノ三重奏・五重奏、そして歌曲や弦楽器・管楽器の伴奏なども、他者と共にひとつの音楽をつくり上げる喜びは、他に換えがたいものがある。
 かくしてピアノ曲は、ありとあらゆる楽器との共演ができることもあって、膨大な量に恵まれている。それは、他の楽器に比べて群を抜いて「抜群」なのである。 とにもかくにも楽しさや喜びは一朝にして得られない。ひとりの練習時間は超長時間に及ぶ、地獄の訓練の観もあるのよね。

 ご参考までに、坂東医師が指摘されているピアノのスポーツへの効果:箇条書きをここに写しておく。

◎集中力やリズム感の養成
◎勝負どころで力まない脱力のコツが身に付く
◎指先など抹消の神経や筋肉を鍛える
◎右脳が刺激され、発想豊かなプレーができるようになる
◎何事も練習の習慣が身に付く
◎血行が促進され、手のリハビリに最適

「めっきりピアノの音がしなくなりましたね」
 つい最近、久しぶりに会った近所の方に言われてしまった。
 こんなに素晴らしいピアノを弾かないなんてもったいない。
 
 考えてみると、一日は24時間。
 私からピアノの時間を奪ったものは、「野口体操」と「ブログ書き」。
 さぁ、久しぶりにピアノの蓋を開けなきゃ、損損! かな???????
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二十年後の国のかたち

2006年09月06日 19時25分07秒 | Weblog
 平成十八年九月六日五黄・友引・戌。いい日を選ばれて、無事のご出産。
 お子様誕生は、御めでたい。
 自然は、日本という国を見離さなかったのだろうか。
 健やかなる成長を、静かに見守りたい。

 親王が二十歳になられるとき、私は七十七歳。
 そのとき、いったいどんな日本になっているのだろうか。
 三年先も予想がつかない急速な変化の時代。二十年という歳月は、予測不可能。
 祈ることは、西暦2026年、本当の豊かさを感じられる日本であってほしい。
 今日は、つくづくそう思った。

 ところで、日本の大学から文学部が解体されていると聞く。就職に強い学部が生き残り、哲学・文学・史学という学科は、補助的な学科へと追いやられているのが現状らしい。大学が実学に偏重し、産業界をになう人材を提供する場となっていくことだけでいいのだろうか。
 消費生活を満たし、キャリア志向を目指す人生がベストという価値観が文学部の存続を危うくするとしたら、いかにも寂しい。
 人には理不尽さに耐えなければならないときがある。非合理的・不条理な出来事に、否応なしに対峙させられるときがある。そんなとき、哲学や文学や史学がもつ言葉は、生を下支えする力となってくれる。

 洋の東西を問わず、ある民族が脈々として継承してきた文化や歴史を、粗末にすることは人であることを放棄することではないだろうか。
 伝統を継承することと新しい文化を創造することは相反することではないはず。

 時折、激しく降る雨の一日。
 静かに読書三昧の時間を過した。

「持続可能」という言葉の持つ重さを感じつつ。
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日本が誇る身体文化:野口体操

2006年09月05日 16時25分37秒 | Weblog
 今朝、出かけようと玄関の戸に手をかけたその時、インターホンが鳴った。
 宅急便が届いた。
「財団法人 省エネルギーセンター」と書かれていた。
 最近は、手渡す際に「よろしいですね」と差出人と中身の確認をしてから、印鑑を押させるように指導されているらしい。

 世の中、たのみもしないものが送られたり、詐欺にあったりして、危険が隣り合わせにあるということなのだろうか。
 
 玄関に戻って、慌てて包みをあける。
 同封されていた手紙と『月刊・省エネルギー9月号』を一冊もって出かけた。
 朝日カルチャーセンターに9時30分に到着した。
 まず、ロビーで手紙と私が受けたインタビュー記事のページを開いた。
「時世の地平線 その三十三 羽鳥操 社会の省エネを道開く”からだの省エネ”」
 ゲラで読んではいたのだが、こうして印刷された活字を読んでみると、新鮮に感じられるから不思議だ。そして驚き。何故って、三十三の「十」に一本斜めの線を加えると「千」になって「三千三」になる~、とドキッとした。こじつけの最たるものかもしれないと苦笑しつつも……。

 そこで、講座担当の緑川さんに本を渡しコピーをお願いした。
「これだったのですね。最近のテーマにサステナブルや省エネの話を取り上げていらしたニュースソースは!」
「なるほど納得」という表情をして、彼女は本を手に携え、その場を離れていった。
 
 板書をしている間に、人数分のコピーを作って教室まで届けてくださったのだ。

「いいお写真ですね」
 最初に手に取った方からほめられて、朝からとても嬉しかった。
「これから講演やワークショップで最初に口火を切る話は、この内容でいきたいと思ってますの」
「いいかもしれません。よくまとまっていて、社会とのつながりの可能性が感じられて……」
 
 それから、レッスンを終えて、「校正室より」を読んでビックリ。
 なんとこのブログのことを書いてくださっているではありませんか。
「野口体操という日本が誇る身体文化に欠かせないガイドとなっている。(丸)」という結びに、ドキドキして、久しぶりに胸の高鳴りを感じてしまった。
 本文のイントロでも「体操を文化の域に高めた創始者の薫陶を受けた……」という評価を明確にしてくださったことに、嬉しさを感じたのだった。

「野口体操は、ラジオ体操とどう違うのですか」
 数年前まで、こうした質問にも答えなければならなかった。
 実際、大学の期末リポートに「“野口体操”という名前を変えたほうがいいと思います。文化なのですから」と書いてくる学生が何人かいるのが実情である。
 常識的なイメージとしての「体操」という名称が、邪魔をしているという。
 
 まさに身体性を封印してきた社会が、ようやくその封印を解こうとしている時代が到来しつつあるのだろうか、と思いを巡らす。なかなかに複雑である。
「今、野口三千三先生がご存命なら、何を語られるのだろう」
 心の中で、そう問いかけた。

 ********
 
 帰りがけに、受講生の方に呼び止められた。
「どこにいったら手にはいりますか」
「新宿だったら紀伊國屋本店にはあると思いますが……」 
 答えてしまった。
 ホームページアドレスは次の通り。
 左のブックマークからリンクしてください。
 
 財団法人 省エネルギーセンター
 http://www.eccj.or.jp/book/
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箱ー不思議な美の小宇宙

2006年09月04日 16時37分11秒 | Weblog
 結婚してたった二週間で夫は徴兵され戦線に送られた。
 若き妻はひとり夜を過す。
 ある晩のこと、蓄音機のそばに立ち、一枚のレコードをターンテーブルの上に置く。音楽が流れる。彼女はひとりダンスする。静かに、しっとりと、夜のとばりの中に、溶け込む姿。黒いスリップの間から見え隠れするたわわに実る乳房が少年を更なる欲望へと駆り立てていく。
 シチリア島の鄙びた漁村。
「見つめるだけで、あなたを守るつもりだった」
 少年は、小さな穴・窓の隙間ごしに年上の女性を視姦する。
 第二次世界大戦下のイタリア。その村にナチがやってくるのは、時間の問題だった。
 ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映像に、エンニオ・モリコーネの音楽が
「あの頃、あなたが世界のすべてだった」という少年の思いを、全篇を通して奏でていく。
 戦争が招く悲劇のなかで、身を落としていく「堕落の女・マレーナ」を少年は見守り続ける。
 そして奇跡的に帰還した夫に、少年は一通の手紙を書く。彼が見てきたことの中で、確信したたった一つのことを。
「マレーナは、あなただけを愛していた」
 汚濁のなかにいるマレーナを少年は、こうして救う。
 少年は節穴から覗いて、まるごとの存在として女性を愛する大切さを知る。そして大人になっていく。

 何時、観た映画だっただろうか。
 私は、プログラムをまとめてある箱を探した。映画や演劇、コンサートの思い出が詰まった箱はずしりと重かった。

 9月3日、「新・日曜美術館」を見た後に、私が最初にとった行動だった。
 この日のテーマは「箱」―不思議な美の小宇宙とサブタイトルがついている。
久しぶりに脳の深みにはまる快感を味わった。
 番組は、男性司会者が幼子のために手作りした箱からはじまった。
 導入は、絵画に見る箱だった。西欧にあこがれる「浦島の箱」。そしてロマノフ王朝の富と権力を象徴する燦然と輝く宝石に埋め尽くされた嗅ぎ煙草の箱へ。さらに大和文華館にある扇面貼交箱(名称は間違っているかもしれません)等々。
 ディレクターの深堀雄一さんへ、感想をしたためたお手紙を差し上げようと、メモを取りながら見始めた私だが、時間の経過のなかで、メモはそのあたりで終わってしまっている。

 ここからは、記憶をたどるしかない。
 コーネルの「幼い日々を閉じ込めた箱」、デュシャンの「大ガラス」と「鞄に収められた移動式美術館」、日本人美術家がつくった箱をのぞくと部屋のなかにおかれた精巧な家具に当てられる光の角度で時間の経過がうみだされるミニチュア空間。

 いつしか浦島の箱から煙とともに立ち昇るのは、20世紀美術の難解な世界。
 佐々木幹郎の詩がコーネル作品の前で朗読されてからは、もういけない。煙にまかれ、一気に脳は、快感の色に染め上げられていくのだった。その快感は、時間という四次元の魔法を携えて、箱がもつ意識の深みを探訪する楽しみ方を教えてくれるのだ。

 極めつけ。針孔から覗き見る川と空と土手の風景には、時間も音も欠落し呼吸しなくても生きているような錯覚へと意識を誘う。それは多摩川に設置した「ピンホールカメラ(針孔写真機)」が、一条の光から写し取った雄大な風景写真。ここまで話が進むころには、しばらく忘れていた覗き見の箱が開かれてしまった。
 この感じをどのように言葉で表わすことができるのだろう?

 。。。。。絶句。。。。。また。。。。。絶句
 
 愛から死へ、人は成長する。
 近代は西洋への憧れ「恋の歌」からはじまったと佐々木氏は、番組の冒頭で語った。
「あの頃、あなたが世界のすべてだった」
 黎明期から西洋にあこがれた日本の少年たちは、いくつもの戦争を経験した。
 見守ったはずのマレーナは、幻影だったのか。

 ここまで来て、はたと気付く。
「いちばん不思議な箱は、人の頭蓋骨かもしれない」
 生まれたときには真っ白な脳が収められている。外からは、絶対に開けることはかなわない。しかし、そこからは物が生まれ、事が起される。善行や悪行を積むにしたがって、皺が増えていく不思議な脳が入った箱。
「ニューロンネットワークは精密機械のようなものである。それも、頭蓋という硬いケースの中に入れられて身体といっしょに、常に、移動している。コンピューターを動かしたまま箱に詰め、トラックで運んでいるようなもの」
 そう記すのは、『脳のなかの水分子―意識が創られるとき』(紀伊國屋書店)の著者・中田力である。
 なんと脳の組織には、壊れやすいものを箱に詰めるときに使われる緩衝材としての発泡スチロール様の乾いた空間があるのではないかとも書いている。ご丁寧に、走査型電子顕微鏡写真が添えられている。「発泡スチロール」と「脳のグリア細胞のマトリックス構造」は、二枚の写真を見るかぎり同様の構造にみえるのだ。

 番組の通奏低音は、「メメント・モリ」。
 開けられない箱・死は、うたかたの意識が描く透かし絵かも知れない……。
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いよいよ日曜日も野口流・ヨガ逆立ち

2006年09月03日 19時10分48秒 | Weblog
 本日、記念すべき午後となった。
 それは、予想外の出来事だった。
 まさか、これほどスムーズにことが進むとは、驚きの一語につきる。

 朝日カルチャーセンター・日曜クラスでのことだった。
 野口流「ヨガの逆立ち」練習に入ることができたのだ。

「ヨガの逆立ちをなさったことあります?」
「ええ」
 ある男性にそっと伺った。
 レッスン時間がのこり20分くらいのときだった。

 そこで、私が包助し、ヨガ逆立ちをしていただいた。皆さんが固唾をのんで、見守っている。
 力まず、焦らず、ゆったりと腰が回転し、脚が上がった。
「これはいける」
 内心、思った。

 それからもうひとり女性の方に試みていただいた。
「OK!」

 そうなれば教室の雰囲気が、一気に変わった。
 野口三千三先生時代から続いておられるお二人、ヨガのインストラクターをなさっている方等々、いくつかの組に分かれて逆立ちの練習が始まった。
 いい感じなのである。
 どの組も無理がない在り方を探っておられた。
「今日、まだ、遠慮しておくわ」
 そういう方も、そばによって、見守ってくださっている。

 かなり前から、日曜日のクラスの人間関係がほのぼのといい雰囲気になってきていた。
 皆さんがお互いに育てあっている。
 ネトネトせずさっぱりとした人間関係のなかにも、お互いを思いやる雰囲気なのである。

 レッスンは、いつも通り話からはじめた。
 今日の話題は、NHK教育「新日曜美術館」本日の「箱・不思議な美の小宇宙」が、あまりにすばらしかったので、その話から入った。そして「意識は脳のなかの水からうまれる!」『脳のなかの水分子』中田力著 紀伊國屋書店。
 話すうちに脱線。
 かなりきわどい話題もしてしまった。

 それから動きに入って、いくつかの経過を通って、自然に流体的野口流・ヨガの逆立ちへとつながっていった。

 隔週というのが、実に恨めしい。
 
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大切な人々

2006年09月02日 08時39分42秒 | Weblog
 昨日、江戸独楽作家の福島保さんから、宅急便が届いた。
 大きな包みだった。
「何だろう?」
 8月14日に、横浜そごうに行かれなかったから……。
 つぶやきながら、包みを開ける。
 丁度、東京・横浜が大停電に見舞われた。その日に訪ねる予定にしていたが、交通機関が乱れていたので、やむなく外出を見合わせてしまった。停電があったら、都会暮らしはアウトだ。
 それから半月があっという間に過ぎていった。
 
 頑丈に包装されていた。
 なかには、手紙と逆立ち独楽が二個入っていた。
 5月に独楽の会に来てくださったときに、壊れていた逆立ち独楽を持っていかれた。そのときの独楽だった。修理して送ってくださった。

 すぐにお礼の電話を入れた。
 大きな逆立ち独楽は、壊れやすいという話を伺った。
 最近の体操用のレッスン室は、周りに鏡が張ってあって、どこに行くか予想がつかない独楽回しは、危険なのだ。でも、試しをしてみたい。
 
 大きい逆立ち独楽は、立ち上がる前にものすごいエネルギーを感じる。
 ビューンと勢いがついて逆立つわけだ。何回か紐を引くうちに回転にスピードがつく。そこで手を離す瞬間に、紐が独楽に絡み付いて、軸を壊すことがある。
 
羽鳥ーところで、福島さんの後継者はいらっしゃるの?
福島ーいえ、いませんよ!
羽鳥ーもったいないですね。
福島ーいいんじゃないですか…。
羽鳥ー福島独楽が残っていればいいってわけ?
福島ーそうね。
羽鳥ーものが残るっていいですよね
福島ー野口体操は、人に残すしかないですからね。
羽鳥ー。。。。。。。。。。
 
 野口三千三先生が残してくださった人との関係は貴重だ、などと改めて思った。
 そういえばもうお一人。NHKのディレクターの方が……。

 先日、ご自身が撮られたコスモスの写真の葉書きが届いていた。
 明日、9月3日、NHK教育「新日曜美術館」午前9時、再放送が午後8時。
 テーマは「箱」。お知らせをいただいた。
 「不思議な美の小宇宙」がサブタイトルのようだ。
 手紙によるとメインの司会者が男性に代わったらしい。
 しばらく「新日曜美術館」を見ていない。
 久しぶりの深堀雄一ディレクターの番組。
 お時間のある方はご覧ください。
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意識は脳のなかの水から生まれる! 本の帯より

2006年09月01日 14時16分40秒 | Weblog
 夏休みが終わって、子ども声が学校に戻ってくる。
 やっぱり、このときが一年の折り返し点のような気がする。
 いよいよ9月である。

 さて、ここで書いておきたいことがある。
「今年の前半は、いくつかの収獲をもらった」
 ということ。そのうちのひとつは、朝日カルチャーセンターの二階のぶ子さんが企画してくださった「野口三千三を読む」だった。
 悪戦苦闘した『原初生命体としての人間』ー第二章ーを読むにあたって、二冊の貴重な本に出会えたことだった。二階さんに感謝している。

 実は、昨晩から、それにつながって、見つけた本がある。
 内容の難解さは、ただ事ではない。
 170ページの本なので、まず、ざっとページをめくって、付箋を入れる作業は終わった。
 たとえばどんなところに付箋をいれたかというと……。
「ボーリングは、人の意識が、脳が覚醒しているという現象が、脳における水分子の状態変化に左右されることを、最初に見抜いた科学者だった。中略。二十一世紀、水の時代。人類は、水を知ることで、こころの秘密を解き明かそうとしている」
 
 著者は「意識に作用する全身麻酔の効果が水分子と密接な関係にある」という理論が書かれたボーリングの論文を、薄暗い論文書庫で見つけた。それ以来、25年、たった一人で森に分け入る。そして、深い眠りから「脳の真実」を覚醒させる王子様となったのである。

 今、ブログを書きながら、小説を読むような感覚で、この本を読んでいたことに気付いた。
 その下敷きには、『原初生命体としての人間』がある。
 思えば、野口三千三先生が発想されたことは、あまりにも早すぎた。
「なんだ、なんだ、なんだ!」って感じで、そうこころの中で叫んでしまった。そして鼻から息を一気に吸い込んでいる、今……。

 MRI世界的権威として日本に戻った著者は、複雑系の脳科学の立場から、「意識は脳のなかの水から生まれる」というコペルニクス的革命を、脳科学に突きつけた。とくに2005年から「水分子の脳科学」を遂行中だという。
 著者の名は、中田力。
 書名は『脳のなかの水分子-意識が創られるとき』。
 出版社は「紀伊國屋書店」2006年8月28日 第一刷発行。

 最後に印象的な言葉をここに記しておこう。
「MRIとは、水分子の画像である。MRIとは、身体を形成する水分子が、与えられた特別な周波数に音叉のように共鳴して起す、ほんのわずかな信号を捉えて画像を作り出す技術である。いわば、MRIの画像とは、水分子の奏でるシンフォニーのようなものである」
 図48「MRI画像における周波数と位置の関係」と題して、脳と音波と耳と五線譜にC(ツェー)・E(エー)・G(ゲー)の音符、そしてピアノの鍵盤等々のイラストを載せている。

 それだけでも親近感が湧きますわ!
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